前回の「30年目の大工調べ」の続きでございます。
実は小学5年生の頃、この「大工調べ」を人前でやった時、
啖呵に入る直前で絶句したことがあります。
この日のことは今でもはっきりと覚えています。
それは自宅の2階で、数人の知らない方を含む大人の前でやった時のことでした。
その中に、柔和な表情をしているとても穏やかな方がいらっしゃって、
ニコニコと私の落語を聞いてくださっていました。
私はその方が視線に入る度にうれしくなっていました。
途中までは実に順調でした。ところが、
「いらねえやい!」という啖呵の最初のセリフが言えない。
セリフは一字一句覚えているはずなのに、言葉が詰まって出てこない。
兄が近くに寄ってきて、セリフを小声で教えてくれる。セリフはわかってる。
でも顔を真っ赤にして、青筋立てても、口から空気が漏れるだけで何にも言えない。
「もういいよ」誰かが言ってくれました。
ふうっと、やっとまともに呼吸。こんなことは初めてでした。
気分が落ち着いてから「最後までなんでやれなかったのかなあ」
自問自答したのを覚えています。いくら考えても理由はわかりません。
それからというもの、モヤモヤが晴れず、周りにも制止されるようになり、
ついには落語自体を人前であまりやらなくなっていきました。
30年経った今は絶句した理由がわかります。
その頃自分で演じていて感じる「啖呵」の気持ちよさには、
「人前で悪態をつく快感」のようなものが含まれていました。
そんなものを、その日初めて会った、目の前の穏やかな人に向ける事が
不意に恐ろしくなったんだと思います。それで絶句してしまった。
実際に啖呵というやつは、
いくらキチンとした江戸弁でも、演者の気が入ってしまって、
本気で怒っているようだと、聞き苦しくなります。
啖呵に振り回されない感情の制御が、演者には求められます。
まあ、全然制御不能の人や、落語を通して「人間の悪徳を見せる」
なんて開き直っちゃう落語家もいたりして…、いやはや。
江戸前の落語は「淡々と演ずるべき」という大前提があるのですが、
つまるところ、スーッとする、気持ちの良い啖呵を切るには、
「言葉をきちんと制御する技法」と
「感情を制御できる演者の了見」が大事なのだと思います。
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