先日は落語講座へいっぱいのお運びありがとうございました。
今回の演目は「唐茄子屋政談(とうなすやせいだん)」
唐茄子とは「かぼちゃ」のことです。
政談は大岡政談由来の話。「奉行によるお裁き」のシーンがあるのが常ですが、
現在この話のお裁きシーンは消失し、内容も不明。
『吉原での遊びが過ぎて、家を勘当された若旦那。
すぐ行き所がなくなってしまい、絶望して川へ身をなげようとしたところを
偶然通りかかった実の叔父さんに助けられます。
明くる日から唐茄子を売って歩くことになるのですが、
肉体労働などしたことがない若旦那…』
『あまりの荷の重さに耐えかねて転んでしまった若旦那ですが、
見ず知らず気のいい下町の住人に助けられ、
唐茄子をすっかり売りさばいてもらいます。
二つ残った唐茄子をかついで、貧乏長屋へ売りに入っていくと
どことなく品のあるおかみさんに呼び止められ…』
場面転換が多い話ですが、それぞれのシーンに見所があり、
また登場人物の多彩なキャラクターが、物語の世界を豊かなものにしています。
この話の演じ方には、途中で話を切って終えてしまうパターンもありますが、
もちろんフルバージョンでやらせて頂きました。
今回は落語そのものは、現代ギャグを入れない「本寸法の落語」のまま
初めて聞かれる方にも楽しんでもらえるよう、マクラ(話の導入)の前に、
「プレゼンテーション」をさせて頂きました。
なかなか好評を博しまして、これからも継続して参ります。
落語に興味はあるけど敷居がちょっと高い、と思ってらっしゃる方は是非。
この噺は最後、「情けは人のためならず」と言って締めくくります。
この言葉、
「人に情けをかけると、かえってその人のためにならない」
という誤った解釈が広がったこともありました。
高度成長期に、自己責任論の台頭により出てきた誤用だと
する説もありますが、どうもあてにはなりません。
正しい意味は、人のためならず=自分のためで、
「人に情けをかけると、巡り巡って自分に返ってくる」
私はこの言葉が子どもの頃は嫌いでした。
自分に返ってくるから情けをかけるとは、
なんて利己的な言葉なんだろう、「卑しいなあ」って思ってました。
しかしそれも間違った解釈だったんじゃないか、と気が付いた。
「人にするんじゃあない、自分にするんだ」
他の落語でも、第三者が「情をかける人」に対して、
言い聞かせるような場面があります。
その時の言い方や口調に気付いて、はっとなった。
「情けをかけられた」側は、そのことが負い目となって生涯苦しむこともある。
「情けをかけた」側も、「俺がしてやった」と傲慢になったりすることもある。
またそうでなくても、情けをかけた相手が負い目や引け目に思っていることに
気が付けば、いたたまれない気持ちにもなる。
「人のためにやってるんだ!」で周りが見えなくなることもある。
人の為と書いて「偽」と読みます。ハイ。
しかしそういう気持ちに振り回されるのは、人間なら当たり前のこと。
でもそれでは世の中を生きづらくなるだけで、いいことなんかない。
「かけた情けが仇となる」という言葉がありますが、
そういう「情け」に付随する様々な感情に振り回されないように、
「巡り巡って関係のないところから自分へ返ってくる」
と考えた方が、健全な社会関係、「付き合い」を保つ事ができる。
「情けをかけた(かけられた)」という意識の獲得は全ての人のためにならない。
自分のためにする、と考えた方が健全である。
この言葉はそう説いているのではないのでしょうか。
これは私が落語の中で使われる様子から感じたことですので、
「学問的」には間違っているかもしれません。
しかし「寄席は浮世学問の場」と申します。
澁澤榮一翁は「落語は世態人情の機微を穿つもの」であると。
だとすれば、あながちこの解釈も間違ってはいないと思うんです。
まあこういうことをいちいち言うのは、「野暮な」物言いかもしれませんけれど。
でもこれだから、やっぱり古典落語は侮れない。
「現代の価値観に合わせる」、なんてことを
無自覚にやったりすると落語の「語」が死にかねない。
ということを改めて確認しました。
「唐茄子屋政談」の結末部分は落語家によって演じ方が変わるのですが、
それは次回の講釈、
「おかみさんを何故死なせてはいけないのか」にて。
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