2012年7月10日火曜日

唐茄子屋政談の結末について

前回からの続きものでございます。

このお話の終盤の演じ方は落語家によって変わることがあります。

『貧乏長屋で出会ったおかみさん、
元武士で今は行商をしている夫からの送金が途絶え、
必死に働いたが体を壊し、二人の子供に三日も何も食べさせていないという。
あまりの困窮ぶりを目の当たりにした若旦那は
「何かあったかいもんでも食べてくださいな」と
商売の売り上げをそっくり渡して帰ってきます。』

『売り上げをやってしまったという若旦那を疑う叔父さんは、
その話がウソかホントか確かめようじゃねえかと、
貧乏長屋のおかみさんを訪ねると、
なんとおかみさんは首をくくってしまったという。』

『おかみさんが金を貰うわけにはいかないと、
若旦那を追っかけて出たところで大家にバッタリ出会ってしまい、
家賃がたまっていることを理由に、その金を取り上げられてしまったという。
その日の夕方隣人が訪ねてみると、おかみさんが梁から…
そして今医者に手当てをしてもらっているところだという。
その話を聞いた若旦那は一目散に大家のところへ…』

というくだりなのですが、
この「おかみさん」が助かる場合と助からない場合があります。
ちなみに志ん朝師匠は「助かるバージョン」、もちろん私もそうです。

客を泣かせるために
おかみさんに死んでもらうという人もいますが、
それは物語を壊すだけだと思うんです。


なぜなら、おかみさんの自殺(未遂)の原因は実は若旦那にあるからです。

前回「情けはひとのためならず」という話をしました。
これと似た言葉で「恩送り」という言葉があります。
立場や身分の違いから生きてる間に「恩返し」ができないこともある。
だから受けた恩は「返す」のではなく、他の誰かに「送る」と。

若旦那は、気のいい下町の住人に恩を受け、
「ああ親切なひとだなあ」で済む町人。恩をただで送られてもOK。

しかしおかみさんは武士の妻。
ただ金を恵んでもらうことは大変な「恥」なのです。
だから必死で金を返そうとした。
そしてその金を大家に取られた事で返せなくなってしまった。
そもそも「恥」という概念に縛られ、子供が飢えても「助けて」と言えなかったおかみさん。
さらに恥を与えて追い詰めたのは、他でもない若旦那なんです。

まあそれ以外の理由もあるでしょうが、これは原因にはなっている。

もちろん大家は因業に違いないし責任はある。
しかし若旦那がタダで金をやらなければこんなことにはならなかった。
『井戸の茶碗』じゃないけど、湯のみでも代わりに貰っとけばよかったんです。
若旦那は知らなかったとはいえ、
相手の立場を無視した「情けが仇」となったんです。

もしおかみさんが死んでしまったら…、
優しい若旦那は必ず自分がしたことに気が付いて、残された子供の面倒を見、
それでも背負った十字架の重さに生涯苦しんだだろうな。
私はそう思ってしまいます。

こんな余韻を観客に味あわせるなんて私は御免蒙ります。

そして「現実はもっと非情だ」(この物語の社会背景は現代よりはるかに非情ですが)
と、おかみさんを死なせるのであれば、
物語の筋立てを再構成したほうがいいと思うんです。今のままではいけない。

お人よしで呑気でどこか憎めない若旦那、
厳しいようで実は思いやりのある叔父さん、
見ず知らずの若旦那を助けてくれる気のいい下町の住人、
おかみさんの困窮を知りつつ、自分達のことが精一杯で助けられない長屋の人達。

こんな登場人物が巡りあって、その結果が「おかみさんの死」だとすれば、

若旦那の呑気さも、叔父さんの温情も、下町住人の義侠も
一体何だったんだとむなしさと共に消し飛んでしまい、
若旦那の勘当がとけたところで、そんなことは
もうどうでもよくなってしまいます。
文脈を無視した物語は見る者を疲れさせるだけではないでしょうか。

厳しい現実が話の背景にあるけれど、その中で
人の巡り会わせを信じさせてくれるような物語。

そんな物語が適当な改変によって歪められてしまう事が
(明治の速記本とかみるとおかみさん死なないんです)
私にとっての「非情な現実」だったりします。

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