2012年9月17日月曜日
九月の落語講座のお知らせ
明後日9月19日(水)は月に一度のお楽しみ、
背中家腰楽の落語講座がございます。
人の機嫌を取る商売として昔は「太鼓持ち」というのがございました。
落語にはこの太鼓持ちが出てくるお話がいくつかあるのですが、
今回はその中から私が一番好きな話をひとつ。
午前中は様々な講座を開催しているコチラにて、
場所 暮らしの学校 (JR岡崎駅徒歩5分)
時間 9月19日(水) 10:30~11:30
電話 0120-511-533
WEB 暮らしの学校(講座ページ)
夜は、1階は特製自家焙煎コーヒー店、
2階は「ナマケモノ大学」を開催しているコチラにて
場所 喫茶スロース (JR蒲郡駅より徒歩1分)
日時 9月19日(水) 20:00より
電話 050-3598-6745
WEB http://ameblo.jp/slothcoffee/
乞うご期待!
2012年9月4日火曜日
落語「死神」
先週は落語講座にいっぱいのお運びありがとうございました。
今回の演目は「船徳」でしたが、
今日は前回の「死神」についてのお話。
死神、なんて落語らしからぬタイトルですが、
このお話、元ネタはなんとグリム童話。
明治の大名人「三遊亭圓朝」が
「死神の名付け親」という物語をもとにして作ったとされています。
「死神の名付け親」はこんな話。
『あるところに貧乏な男がおりまして、その家に13人目の子供が産まれました。
(…実に無計画ですな)
とにかく名付け親をさがさなっくちゃあならないと、
男が表に出て最初に会ったのが神様。
名付け親になってやろうと言う神様に対して男は
「おまえさんは金持ちには物を与えて、貧乏人は飢えさせておくから御免だ」
と言って断ります。
次に会ったのは悪魔でした。しかし、
「おまえさんは人を騙したり、そそのかしたりするからいけない」
と断ります。
最後にやってきたのが死神でした。
「おまえさんは金持ちも貧乏人も区別せず平等に連れて行くから、おまえさんに頼もう」
と死神に子供の名付け親になってもらうのですが…』
落語「死神」はこの子供が大きくなってからの場面から始まります。
話の面白さゆえ、人気の高い落語ですが、
笑いとゾクッとくる怖さを同居させるバランスが難しい。
落語というといわゆる笑い話というイメージが強いかと思いますが、
怪談話や人情噺など色んな話があります。
また演者によって同じ話でも全く違った印象になったり、
観客の世代や価値観によって、笑いどころや楽しみ方が違ってきます。
笑うもよし、悲哀を感じるもよし、江戸の風情に思いを馳せるもよし、
哲学的な要素を含む話に深く考えてみるのもよし、
「楽しみ方」の幅の広さが落語の身上でございまして。
なんにせよ落語はお客さんに「楽しんで頂ける」のが一番です。
落語講座では解説も含めてちょいと小難しい感じに
なることもありますが…(スミマセン)
そんな楽しめる落語の場をこれからも
聞きに来てくださる皆様と一緒に作っていければと思います。
今回の演目は「船徳」でしたが、
今日は前回の「死神」についてのお話。
死神、なんて落語らしからぬタイトルですが、
このお話、元ネタはなんとグリム童話。
明治の大名人「三遊亭圓朝」が
「死神の名付け親」という物語をもとにして作ったとされています。
「死神の名付け親」はこんな話。
『あるところに貧乏な男がおりまして、その家に13人目の子供が産まれました。
(…実に無計画ですな)
とにかく名付け親をさがさなっくちゃあならないと、
男が表に出て最初に会ったのが神様。
名付け親になってやろうと言う神様に対して男は
「おまえさんは金持ちには物を与えて、貧乏人は飢えさせておくから御免だ」
と言って断ります。
次に会ったのは悪魔でした。しかし、
「おまえさんは人を騙したり、そそのかしたりするからいけない」
と断ります。
最後にやってきたのが死神でした。
「おまえさんは金持ちも貧乏人も区別せず平等に連れて行くから、おまえさんに頼もう」
と死神に子供の名付け親になってもらうのですが…』
落語「死神」はこの子供が大きくなってからの場面から始まります。
話の面白さゆえ、人気の高い落語ですが、
笑いとゾクッとくる怖さを同居させるバランスが難しい。
落語というといわゆる笑い話というイメージが強いかと思いますが、
怪談話や人情噺など色んな話があります。
また演者によって同じ話でも全く違った印象になったり、
観客の世代や価値観によって、笑いどころや楽しみ方が違ってきます。
笑うもよし、悲哀を感じるもよし、江戸の風情に思いを馳せるもよし、
哲学的な要素を含む話に深く考えてみるのもよし、
「楽しみ方」の幅の広さが落語の身上でございまして。
なんにせよ落語はお客さんに「楽しんで頂ける」のが一番です。
落語講座では解説も含めてちょいと小難しい感じに
なることもありますが…(スミマセン)
そんな楽しめる落語の場をこれからも
聞きに来てくださる皆様と一緒に作っていければと思います。
2012年8月26日日曜日
8月の講座のお知らせ
今週8月29日(水)は月に一度のお楽しみ、背中家腰楽の落語講座がございます。
毎月第三水曜日に行っておりますが、お盆休みということで日程が変わっております。
告知が遅れまして申し訳ございません。来月より通常の日程に戻ります。
今回は暑い時にピッタリの涼しくなるお話です。
先月はちょっとゾクゾクッと来るお話でしたが、また違った涼しさを感じて頂ければと思います。
本来もう秋の落語をやる時期ですが、まだまだ残暑も厳しいということで…
午前中は様々な講座を開催しているコチラにて、
場所 暮らしの学校 (JR岡崎駅徒歩5分)
時間 8月29日(水) 10:30~11:30
電話 0120-511-533
WEB 暮らしの学校(講座ページ)
夜は、1階は特製自家焙煎コーヒー店、
2階は「ナマケモノ大学」を開催しているコチラにて
場所 喫茶スロース (JR蒲郡駅より徒歩1分)
日時 8月29日(水) 20:00より
電話 050-3598-6745
WEB http://ameblo.jp/slothcoffee/
乞うご期待!
毎月第三水曜日に行っておりますが、お盆休みということで日程が変わっております。
告知が遅れまして申し訳ございません。来月より通常の日程に戻ります。
今回は暑い時にピッタリの涼しくなるお話です。
先月はちょっとゾクゾクッと来るお話でしたが、また違った涼しさを感じて頂ければと思います。
本来もう秋の落語をやる時期ですが、まだまだ残暑も厳しいということで…
午前中は様々な講座を開催しているコチラにて、
場所 暮らしの学校 (JR岡崎駅徒歩5分)
時間 8月29日(水) 10:30~11:30
電話 0120-511-533
WEB 暮らしの学校(講座ページ)
夜は、1階は特製自家焙煎コーヒー店、
2階は「ナマケモノ大学」を開催しているコチラにて
場所 喫茶スロース (JR蒲郡駅より徒歩1分)
日時 8月29日(水) 20:00より
電話 050-3598-6745
WEB http://ameblo.jp/slothcoffee/
乞うご期待!
2012年8月7日火曜日
不思議な「パワー」はあるのか
「目に見えない不思議なパワーって本当にあるんですか?」
よく患者さんに質問されます。
代替医療には、「目に見えない力」を提示しているものがあります。
○○スピリチュアル、△△パワー、◇◇波動、…などなど。
目に見えないものを「ある」と言っているわけですから、
なんだか怪しい!と思う方もいらっしゃるでしょう。
しかし、不思議なパワーが「絶対にない」と証明することもできません。
現代科学では分析できないエネルギーがそこにはあるのかもしれません。
しかし今までにいわゆる「パワー」の存在が物理的に証明された事はありません。
少なくとも科学的な検証下では、髪の毛一本すら持ち上げたことはないのです。
これからもパワーが目に見える形で証明されることはおそらくないでしょう
いずれにせよ「ある」と認識している人たちは、パワーを感覚で認識しています。
一つはっきりしていることは、「不思議な力」の存在が信じられている文化圏において、
「不思議な力」は単なる幻想ではないということです。
「笑いと治癒力」 (ノーマン・カズンズ 岩波書店)
に出てくるアフリカの呪術師は事実として村人を治している。
実際に自分を治してくれる(自分の治す力を引き出してくれる)
やり方が「目に見えないパワー」である人に、
科学的でないから信じるのをやめろと言うのは、合理性を欠いています。
「そういう力を信じたい」、という文化や社会があるのは事実であり、
そのパワーを「実感」している人がいるのですから。
この「実感」というもの自体は存在するのですから、
少なくともその人の意識の中にだけは「パワーと呼べるもの」は存在するのです。
それは科学的に説明するならば「脳のパワー」ということかもしれません。
「パワーを使います」という宣言は、それ自体が
相手の思考や感情にバイアスを与えます。
本当にパワーが存在する、しないに関わらず、
神秘的な期待感の中で、「パワーが送られている」、「何だか体があたたかい」と感じれば、
安心感、幸福感、リラックスといった影響が現れ、
それが症状の改善につながる可能性はあります。
「パワーなど絶対に信じない」
という否定的な感情を持って、体をこわばらせていたのならば、
何の変化もないかもしれません。
いずれにせよ結果として元気になることがあるのならば、
それを一方的に間違いだとすることはできません。
しかし、「パワー」はその神秘性ゆえに諸刃の剣になることもあります。
もしもパワーを絶対的なものとして受け入れてしまった場合、
良くならない時に待っているのは、深い絶望かもしれませんし、
良くなった時でも依存してしまう可能性があります。
「パワーでよくなる」というやり方が、他の治療よりも優先すべきものなのか、
費用対効果も含めて、その人の人生にとって適切な手段であるのかどうか。
様々な側面から考えなければ、有益とはいえないものになるかもしれません。
「笑いと治癒力」に出てくるアフリカの呪術師は、自分が治せる者、病院に行くべき者
をきちんと理解して振り分けていました。呪術のパワーが実際にあるかないか以前に、
その呪術の「適用範囲」を知り、どのように役立てるかという視点を持っています。
まあ、もしも私が仮に「パワー」を持っていて、それで治せるとしたら、
そのことを宣言せずに黙って使うでしょうね。
誰に対して、どのように用いるべきなのか。
これは他の代替医療でもそうですし、
また通常医療においても念頭に置くべき大切な事だと思います。
よく患者さんに質問されます。
代替医療には、「目に見えない力」を提示しているものがあります。
○○スピリチュアル、△△パワー、◇◇波動、…などなど。
目に見えないものを「ある」と言っているわけですから、
なんだか怪しい!と思う方もいらっしゃるでしょう。
しかし、不思議なパワーが「絶対にない」と証明することもできません。
現代科学では分析できないエネルギーがそこにはあるのかもしれません。
しかし今までにいわゆる「パワー」の存在が物理的に証明された事はありません。
少なくとも科学的な検証下では、髪の毛一本すら持ち上げたことはないのです。
これからもパワーが目に見える形で証明されることはおそらくないでしょう
いずれにせよ「ある」と認識している人たちは、パワーを感覚で認識しています。
一つはっきりしていることは、「不思議な力」の存在が信じられている文化圏において、
「不思議な力」は単なる幻想ではないということです。
「笑いと治癒力」 (ノーマン・カズンズ 岩波書店)
に出てくるアフリカの呪術師は事実として村人を治している。
実際に自分を治してくれる(自分の治す力を引き出してくれる)
やり方が「目に見えないパワー」である人に、
科学的でないから信じるのをやめろと言うのは、合理性を欠いています。
「そういう力を信じたい」、という文化や社会があるのは事実であり、
そのパワーを「実感」している人がいるのですから。
この「実感」というもの自体は存在するのですから、
少なくともその人の意識の中にだけは「パワーと呼べるもの」は存在するのです。
それは科学的に説明するならば「脳のパワー」ということかもしれません。
「パワーを使います」という宣言は、それ自体が
相手の思考や感情にバイアスを与えます。
本当にパワーが存在する、しないに関わらず、
神秘的な期待感の中で、「パワーが送られている」、「何だか体があたたかい」と感じれば、
安心感、幸福感、リラックスといった影響が現れ、
それが症状の改善につながる可能性はあります。
「パワーなど絶対に信じない」
という否定的な感情を持って、体をこわばらせていたのならば、
何の変化もないかもしれません。
いずれにせよ結果として元気になることがあるのならば、
それを一方的に間違いだとすることはできません。
しかし、「パワー」はその神秘性ゆえに諸刃の剣になることもあります。
もしもパワーを絶対的なものとして受け入れてしまった場合、
良くならない時に待っているのは、深い絶望かもしれませんし、
良くなった時でも依存してしまう可能性があります。
「パワーでよくなる」というやり方が、他の治療よりも優先すべきものなのか、
費用対効果も含めて、その人の人生にとって適切な手段であるのかどうか。
様々な側面から考えなければ、有益とはいえないものになるかもしれません。
「笑いと治癒力」に出てくるアフリカの呪術師は、自分が治せる者、病院に行くべき者
をきちんと理解して振り分けていました。呪術のパワーが実際にあるかないか以前に、
その呪術の「適用範囲」を知り、どのように役立てるかという視点を持っています。
まあ、もしも私が仮に「パワー」を持っていて、それで治せるとしたら、
そのことを宣言せずに黙って使うでしょうね。
誰に対して、どのように用いるべきなのか。
これは他の代替医療でもそうですし、
また通常医療においても念頭に置くべき大切な事だと思います。
2012年7月29日日曜日
8月5日は瀬戸市にて落語会を行います
来週の日曜日8月5日(日)14:00~
瀬戸市の花屋さん「はーばす」(ホームページ)にて
私「背中家腰楽」の落語会が開催されます。
この一年岡崎市を中心に三河地方のみで
やって参りましたが、今回はちょいと遠征でございます。
以前に落語を見てくださった方からお声をかけて
頂き、今回の運びとなりました。
つきましては、当日「杉田整体院」を
11:30~17:00の間、お休みとさせて頂きます。
(当該時間でも予約の電話は受け付けております。)
2012年7月12日木曜日
7月の落語講座のお知らせ
来週7月18日(水)は月に一度のお楽しみ、
背中家腰楽の落語講座がございます。
今回のお話は古典落語なんですが、なんと元ネタは西洋の物語。
あるコワーイ「神様」が登場します。果たしてどんな神様が出て参りますか…
午前中はこちらにて、
場所 暮らしの学校
時間 7月18日(水) 10:30~11:30
電話 0120-511-533
WEB 暮らしの学校(講座ページ)
夜は、1階は特製自家焙煎コーヒー店、
2階は「ナマケモノ大学」を開催しているコチラにて
場所 喫茶スロース (JR蒲郡駅より徒歩分)
日時 7月18日(水) 20:00より
電話 050-3598-6745
WEB http://ameblo.jp/slothcoffee/
乞うご期待!
背中家腰楽の落語講座がございます。
今回のお話は古典落語なんですが、なんと元ネタは西洋の物語。
あるコワーイ「神様」が登場します。果たしてどんな神様が出て参りますか…
午前中はこちらにて、
場所 暮らしの学校
時間 7月18日(水) 10:30~11:30
電話 0120-511-533
WEB 暮らしの学校(講座ページ)
夜は、1階は特製自家焙煎コーヒー店、
2階は「ナマケモノ大学」を開催しているコチラにて
場所 喫茶スロース (JR蒲郡駅より徒歩分)
日時 7月18日(水) 20:00より
電話 050-3598-6745
WEB http://ameblo.jp/slothcoffee/
乞うご期待!
2012年7月10日火曜日
唐茄子屋政談の結末について
前回からの続きものでございます。
このお話の終盤の演じ方は落語家によって変わることがあります。
『貧乏長屋で出会ったおかみさん、
元武士で今は行商をしている夫からの送金が途絶え、
必死に働いたが体を壊し、二人の子供に三日も何も食べさせていないという。
あまりの困窮ぶりを目の当たりにした若旦那は
「何かあったかいもんでも食べてくださいな」と
商売の売り上げをそっくり渡して帰ってきます。』
『売り上げをやってしまったという若旦那を疑う叔父さんは、
その話がウソかホントか確かめようじゃねえかと、
貧乏長屋のおかみさんを訪ねると、
なんとおかみさんは首をくくってしまったという。』
『おかみさんが金を貰うわけにはいかないと、
若旦那を追っかけて出たところで大家にバッタリ出会ってしまい、
家賃がたまっていることを理由に、その金を取り上げられてしまったという。
その日の夕方隣人が訪ねてみると、おかみさんが梁から…
そして今医者に手当てをしてもらっているところだという。
その話を聞いた若旦那は一目散に大家のところへ…』
というくだりなのですが、
この「おかみさん」が助かる場合と助からない場合があります。
ちなみに志ん朝師匠は「助かるバージョン」、もちろん私もそうです。
客を泣かせるために
おかみさんに死んでもらうという人もいますが、
それは物語を壊すだけだと思うんです。
なぜなら、おかみさんの自殺(未遂)の原因は実は若旦那にあるからです。
前回「情けはひとのためならず」という話をしました。
これと似た言葉で「恩送り」という言葉があります。
立場や身分の違いから生きてる間に「恩返し」ができないこともある。
だから受けた恩は「返す」のではなく、他の誰かに「送る」と。
若旦那は、気のいい下町の住人に恩を受け、
「ああ親切なひとだなあ」で済む町人。恩をただで送られてもOK。
しかしおかみさんは武士の妻。
ただ金を恵んでもらうことは大変な「恥」なのです。
だから必死で金を返そうとした。
そしてその金を大家に取られた事で返せなくなってしまった。
そもそも「恥」という概念に縛られ、子供が飢えても「助けて」と言えなかったおかみさん。
さらに恥を与えて追い詰めたのは、他でもない若旦那なんです。
まあそれ以外の理由もあるでしょうが、これは原因にはなっている。
もちろん大家は因業に違いないし責任はある。
しかし若旦那がタダで金をやらなければこんなことにはならなかった。
『井戸の茶碗』じゃないけど、湯のみでも代わりに貰っとけばよかったんです。
若旦那は知らなかったとはいえ、
相手の立場を無視した「情けが仇」となったんです。
もしおかみさんが死んでしまったら…、
優しい若旦那は必ず自分がしたことに気が付いて、残された子供の面倒を見、
それでも背負った十字架の重さに生涯苦しんだだろうな。
私はそう思ってしまいます。
こんな余韻を観客に味あわせるなんて私は御免蒙ります。
そして「現実はもっと非情だ」(この物語の社会背景は現代よりはるかに非情ですが)
と、おかみさんを死なせるのであれば、
物語の筋立てを再構成したほうがいいと思うんです。今のままではいけない。
お人よしで呑気でどこか憎めない若旦那、
厳しいようで実は思いやりのある叔父さん、
見ず知らずの若旦那を助けてくれる気のいい下町の住人、
おかみさんの困窮を知りつつ、自分達のことが精一杯で助けられない長屋の人達。
こんな登場人物が巡りあって、その結果が「おかみさんの死」だとすれば、
若旦那の呑気さも、叔父さんの温情も、下町住人の義侠も
一体何だったんだとむなしさと共に消し飛んでしまい、
若旦那の勘当がとけたところで、そんなことは
もうどうでもよくなってしまいます。
文脈を無視した物語は見る者を疲れさせるだけではないでしょうか。
厳しい現実が話の背景にあるけれど、その中で
人の巡り会わせを信じさせてくれるような物語。
そんな物語が適当な改変によって歪められてしまう事が
(明治の速記本とかみるとおかみさん死なないんです)
私にとっての「非情な現実」だったりします。
このお話の終盤の演じ方は落語家によって変わることがあります。
『貧乏長屋で出会ったおかみさん、
元武士で今は行商をしている夫からの送金が途絶え、
必死に働いたが体を壊し、二人の子供に三日も何も食べさせていないという。
あまりの困窮ぶりを目の当たりにした若旦那は
「何かあったかいもんでも食べてくださいな」と
商売の売り上げをそっくり渡して帰ってきます。』
『売り上げをやってしまったという若旦那を疑う叔父さんは、
その話がウソかホントか確かめようじゃねえかと、
貧乏長屋のおかみさんを訪ねると、
なんとおかみさんは首をくくってしまったという。』
『おかみさんが金を貰うわけにはいかないと、
若旦那を追っかけて出たところで大家にバッタリ出会ってしまい、
家賃がたまっていることを理由に、その金を取り上げられてしまったという。
その日の夕方隣人が訪ねてみると、おかみさんが梁から…
そして今医者に手当てをしてもらっているところだという。
その話を聞いた若旦那は一目散に大家のところへ…』
というくだりなのですが、
この「おかみさん」が助かる場合と助からない場合があります。
ちなみに志ん朝師匠は「助かるバージョン」、もちろん私もそうです。
客を泣かせるために
おかみさんに死んでもらうという人もいますが、
それは物語を壊すだけだと思うんです。
なぜなら、おかみさんの自殺(未遂)の原因は実は若旦那にあるからです。
前回「情けはひとのためならず」という話をしました。
これと似た言葉で「恩送り」という言葉があります。
立場や身分の違いから生きてる間に「恩返し」ができないこともある。
だから受けた恩は「返す」のではなく、他の誰かに「送る」と。
若旦那は、気のいい下町の住人に恩を受け、
「ああ親切なひとだなあ」で済む町人。恩をただで送られてもOK。
しかしおかみさんは武士の妻。
ただ金を恵んでもらうことは大変な「恥」なのです。
だから必死で金を返そうとした。
そしてその金を大家に取られた事で返せなくなってしまった。
そもそも「恥」という概念に縛られ、子供が飢えても「助けて」と言えなかったおかみさん。
さらに恥を与えて追い詰めたのは、他でもない若旦那なんです。
まあそれ以外の理由もあるでしょうが、これは原因にはなっている。
もちろん大家は因業に違いないし責任はある。
しかし若旦那がタダで金をやらなければこんなことにはならなかった。
『井戸の茶碗』じゃないけど、湯のみでも代わりに貰っとけばよかったんです。
若旦那は知らなかったとはいえ、
相手の立場を無視した「情けが仇」となったんです。
もしおかみさんが死んでしまったら…、
優しい若旦那は必ず自分がしたことに気が付いて、残された子供の面倒を見、
それでも背負った十字架の重さに生涯苦しんだだろうな。
私はそう思ってしまいます。
こんな余韻を観客に味あわせるなんて私は御免蒙ります。
そして「現実はもっと非情だ」(この物語の社会背景は現代よりはるかに非情ですが)
と、おかみさんを死なせるのであれば、
物語の筋立てを再構成したほうがいいと思うんです。今のままではいけない。
お人よしで呑気でどこか憎めない若旦那、
厳しいようで実は思いやりのある叔父さん、
見ず知らずの若旦那を助けてくれる気のいい下町の住人、
おかみさんの困窮を知りつつ、自分達のことが精一杯で助けられない長屋の人達。
こんな登場人物が巡りあって、その結果が「おかみさんの死」だとすれば、
若旦那の呑気さも、叔父さんの温情も、下町住人の義侠も
一体何だったんだとむなしさと共に消し飛んでしまい、
若旦那の勘当がとけたところで、そんなことは
もうどうでもよくなってしまいます。
文脈を無視した物語は見る者を疲れさせるだけではないでしょうか。
厳しい現実が話の背景にあるけれど、その中で
人の巡り会わせを信じさせてくれるような物語。
そんな物語が適当な改変によって歪められてしまう事が
(明治の速記本とかみるとおかみさん死なないんです)
私にとっての「非情な現実」だったりします。
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