前回記事「真田小僧-小児は白き糸の如し」で取り上げました
この言葉を自身にあてはめてみますると、
私が「らくご色」に染まりましたのは小学1、2年生の頃でございまして。
毎晩寝るとき、親が必ず落語のテープをかけておりました。
普段は厳しい父が真っ暗闇の中でクスクスと笑っている。
はて何がおかしいんだろうと耳をそばだてている内、
落語の面白さに嵌まっていきました。
6、7歳で落語を理解した、なんてえますと、
「栴檀は双葉より芳し」と言われたかと思えば、
「五歳で神童、二十歳過ぎればただの人」と言われたり、まあ大変。
しかしこれは、親が興味を示しているものを
私が必死になって理解しようとした結果起きた事でして、
どんな子供でも起こり得たことだと思います。(別に落語でなくても)
また、私が子どもの頃は、親と一緒にいる時間が長かったですね。
そこで必然的に空間だけでなく情報も共有していることで、
いろんな刺激を親を通して見ることが出来ました。
現在は、親子で一緒にいても親はスマホ、子供は携帯ゲーム機という、
それぞれのパーソナルな世界に分かれてしまいがちですが…。
例えば昔はTVを見るのも一緒でした。
今や携帯、PCでも見られますが、一家に一台の時代です。
我が家の夕食後の娯楽といえば、
みんなでトランプや花札をすることもありましたが、
なんといっても「テレビジョン」でございました。
しかしチャンネル権は子供にありませんので、親の見たい番組を見ることに。
土曜8時に「ドリフ」がみたくても「暴れん坊将軍」見せられたりしまして。
しかし、一緒に視聴している事で、両親や祖父母が笑ったり、怒ったり、
時には泣いたりする姿をよーく見ることができました。
ああこういうことがおもしろいのかな、
うーんそれは僕は違うなあとか、TVから発信される情報を
周りの大人の価値観との対比を経て、自分の中に落とし込んでいました。
家族でTVをシェアしていた時代、TVが子供に与える影響は、
単純に放送内容だけでは決まらなかったんじゃないでしょうか。
そんな中で私はある時、笑いの「闇」に気が付くのでありますが…
それはまた次回の講釈。
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