2012年3月26日月曜日

なぜ「昔の町のお医者さんは良かった」のか

本日は医療に関するおはなし。おもろい話ではございません。

最近、患者さんから結構頻繁に伺う話がありまして。 

「病院に検査へ行ったら、担当の医師がパソコンだけを見て、
話している時もこっちの顔を一度も見ないんです。
顔色を見たりとか、触診なんかは一切ありませんでした。
最後まで画面だけを見て、画面に向かって話して、
薬だけ決めて、ハイ診察終わり。」

「こんなモノみたいな扱い受けたのは初めてです。
あんな医者は信用できないからもう行きたくないなあ。
昔の町のお医者さんは親身になってくれて、ホントに良かったんですけど」

町医者の事を話されるのは、70代より上の方がほとんどです。
高齢の偉いお医者さんの中には、今の若い医師達に
「昔の町医者を目指せ」と仰る方もいらっしゃいます。

戦前の町医者の時代、現在の病院のように薬が豊富にあるわけでもなく、
治せない感染症などが無数にありました。
そんな中でどうやって治そうとしたのかといえば、それは「生活改善」

町医者はその地域に住み、全住民の治療を一手に引き受けていることで、
住民の体のことだけでなく、性格や趣味など様々な情報を把握していました。

そしてその時代は往診という診療システムがありました。
病人の家に上がって患者さんを診る。
そうすると、どんなものを食べているのか、衛生状態なども判断することができました。

こうした患者の様々な情報を知り得る事で、
「もっと栄養のあるものを食べなくてはいけない」
「また酒を飲みやがって、バカモン!」とか、家族に向かって
「この人に無理をさせていたら、後々あんたたちが困りますよ」
といった様々な意見をすることで、病人の生活改善を行うことができました。

そして自分の意見に従ってもらう為にも、
医師には「立派な人格」、時には「怖い人格」が求められました
尊敬される町医者はその役割をキチンと果たしていたのだと思います。
また、社会通念や当時の倫理観も含めて、
そういう医師が育つ背景もあったのではないのでしょうか。

どんな深夜でも家まで往診に来てくれるような、親身になってくれる、
立派で時には怖い先生が、患者の枕元で、その命の終わりを告げるとき、
今よりはるかに病気の死亡率が高かった時代であるにも関わらず、
人は「死」というシビアな現実も受け入れることができたのかもしれません。

しかし、いくら「昔の町医者を目指せ」と偉い先生が叫んでも、
現在では様々な前提条件が変化しています。

病院で初めて会って、(特に検診などでは)検査の数値を元に、
10分の診察時間中に、病気を判断しなくてはならない医療システムの中で、
かつてのような役割を果たす事ができるのでしょうか。

患者さんは患者さんで、生活を改めるよう意見されれば、
「あいつは嫌な奴だ」と別の医者に行ったりもする。
医師が、利益が少なくても不必要な薬は処方しない、という決断をしても、
「あの医者は何もしてくれない」と薬をバンバン出す医者のところへ行ってしまう。
親身になって患者さんの為にやったことが、逆に不信感を生むことも少なくありません。

患者が医者を選り好みできる時代に、誇りを持って、
「立派な医者」を目指す道のりは大変険しいものだと言えます。

もちろん、一定の患者さんにとって信用できない、
納得して診察を受けられないような医療は改善の必要があります。

けれども構造的な問題を無視して、精神論だけに傾いていても、
こうした「医療に対する不信」は解消されないのではないのでしょうか。

そしてこの問題は、医師だけでなく患者さんも、
今の医療にできることとできないこと、社会における医療の役割をキチンと認識して、
これからの「納得のある医療」を考えることが大事なのだと思います。

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