2012年7月10日火曜日

唐茄子屋政談の結末について

前回からの続きものでございます。

このお話の終盤の演じ方は落語家によって変わることがあります。

『貧乏長屋で出会ったおかみさん、
元武士で今は行商をしている夫からの送金が途絶え、
必死に働いたが体を壊し、二人の子供に三日も何も食べさせていないという。
あまりの困窮ぶりを目の当たりにした若旦那は
「何かあったかいもんでも食べてくださいな」と
商売の売り上げをそっくり渡して帰ってきます。』

『売り上げをやってしまったという若旦那を疑う叔父さんは、
その話がウソかホントか確かめようじゃねえかと、
貧乏長屋のおかみさんを訪ねると、
なんとおかみさんは首をくくってしまったという。』

『おかみさんが金を貰うわけにはいかないと、
若旦那を追っかけて出たところで大家にバッタリ出会ってしまい、
家賃がたまっていることを理由に、その金を取り上げられてしまったという。
その日の夕方隣人が訪ねてみると、おかみさんが梁から…
そして今医者に手当てをしてもらっているところだという。
その話を聞いた若旦那は一目散に大家のところへ…』

というくだりなのですが、
この「おかみさん」が助かる場合と助からない場合があります。
ちなみに志ん朝師匠は「助かるバージョン」、もちろん私もそうです。

客を泣かせるために
おかみさんに死んでもらうという人もいますが、
それは物語を壊すだけだと思うんです。


なぜなら、おかみさんの自殺(未遂)の原因は実は若旦那にあるからです。

前回「情けはひとのためならず」という話をしました。
これと似た言葉で「恩送り」という言葉があります。
立場や身分の違いから生きてる間に「恩返し」ができないこともある。
だから受けた恩は「返す」のではなく、他の誰かに「送る」と。

若旦那は、気のいい下町の住人に恩を受け、
「ああ親切なひとだなあ」で済む町人。恩をただで送られてもOK。

しかしおかみさんは武士の妻。
ただ金を恵んでもらうことは大変な「恥」なのです。
だから必死で金を返そうとした。
そしてその金を大家に取られた事で返せなくなってしまった。
そもそも「恥」という概念に縛られ、子供が飢えても「助けて」と言えなかったおかみさん。
さらに恥を与えて追い詰めたのは、他でもない若旦那なんです。

まあそれ以外の理由もあるでしょうが、これは原因にはなっている。

もちろん大家は因業に違いないし責任はある。
しかし若旦那がタダで金をやらなければこんなことにはならなかった。
『井戸の茶碗』じゃないけど、湯のみでも代わりに貰っとけばよかったんです。
若旦那は知らなかったとはいえ、
相手の立場を無視した「情けが仇」となったんです。

もしおかみさんが死んでしまったら…、
優しい若旦那は必ず自分がしたことに気が付いて、残された子供の面倒を見、
それでも背負った十字架の重さに生涯苦しんだだろうな。
私はそう思ってしまいます。

こんな余韻を観客に味あわせるなんて私は御免蒙ります。

そして「現実はもっと非情だ」(この物語の社会背景は現代よりはるかに非情ですが)
と、おかみさんを死なせるのであれば、
物語の筋立てを再構成したほうがいいと思うんです。今のままではいけない。

お人よしで呑気でどこか憎めない若旦那、
厳しいようで実は思いやりのある叔父さん、
見ず知らずの若旦那を助けてくれる気のいい下町の住人、
おかみさんの困窮を知りつつ、自分達のことが精一杯で助けられない長屋の人達。

こんな登場人物が巡りあって、その結果が「おかみさんの死」だとすれば、

若旦那の呑気さも、叔父さんの温情も、下町住人の義侠も
一体何だったんだとむなしさと共に消し飛んでしまい、
若旦那の勘当がとけたところで、そんなことは
もうどうでもよくなってしまいます。
文脈を無視した物語は見る者を疲れさせるだけではないでしょうか。

厳しい現実が話の背景にあるけれど、その中で
人の巡り会わせを信じさせてくれるような物語。

そんな物語が適当な改変によって歪められてしまう事が
(明治の速記本とかみるとおかみさん死なないんです)
私にとっての「非情な現実」だったりします。

2012年7月5日木曜日

「情けは人の為ならず」唐茄子屋政談

先日は落語講座へいっぱいのお運びありがとうございました。

今回の演目は「唐茄子屋政談(とうなすやせいだん)」
唐茄子とは「かぼちゃ」のことです。
政談は大岡政談由来の話。「奉行によるお裁き」のシーンがあるのが常ですが、
現在この話のお裁きシーンは消失し、内容も不明。

『吉原での遊びが過ぎて、家を勘当された若旦那。
すぐ行き所がなくなってしまい、絶望して川へ身をなげようとしたところを
偶然通りかかった実の叔父さんに助けられます。
明くる日から唐茄子を売って歩くことになるのですが、
肉体労働などしたことがない若旦那…』

『あまりの荷の重さに耐えかねて転んでしまった若旦那ですが、
見ず知らず気のいい下町の住人に助けられ、
唐茄子をすっかり売りさばいてもらいます。
二つ残った唐茄子をかついで、貧乏長屋へ売りに入っていくと
どことなく品のあるおかみさんに呼び止められ…』

場面転換が多い話ですが、それぞれのシーンに見所があり、
また登場人物の多彩なキャラクターが、物語の世界を豊かなものにしています。

この話の演じ方には、途中で話を切って終えてしまうパターンもありますが、
もちろんフルバージョンでやらせて頂きました。

今回は落語そのものは、現代ギャグを入れない「本寸法の落語」のまま
初めて聞かれる方にも楽しんでもらえるよう、マクラ(話の導入)の前に、
「プレゼンテーション」をさせて頂きました。

なかなか好評を博しまして、これからも継続して参ります。
落語に興味はあるけど敷居がちょっと高い、と思ってらっしゃる方は是非。

この噺は最後、「情けは人のためならず」と言って締めくくります。

この言葉、
「人に情けをかけると、かえってその人のためにならない」
という誤った解釈が広がったこともありました。
高度成長期に、自己責任論の台頭により出てきた誤用だと
する説もありますが、どうもあてにはなりません。

正しい意味は、人のためならず=自分のためで、
「人に情けをかけると、巡り巡って自分に返ってくる」


私はこの言葉が子どもの頃は嫌いでした。
自分に返ってくるから情けをかけるとは、
なんて利己的な言葉なんだろう、「卑しいなあ」って思ってました。


しかしそれも間違った解釈だったんじゃないか、と気が付いた。


「人にするんじゃあない、自分にするんだ」
他の落語でも、第三者が「情をかける人」に対して、
言い聞かせるような場面があります。
その時の言い方や口調に気付いて、はっとなった。

「情けをかけられた」側は、そのことが負い目となって生涯苦しむこともある。

「情けをかけた」側も、「俺がしてやった」と傲慢になったりすることもある。
またそうでなくても、情けをかけた相手が負い目や引け目に思っていることに
気が付けば、いたたまれない気持ちにもなる。
「人のためにやってるんだ!」で周りが見えなくなることもある。
人の為と書いて「偽」と読みます。ハイ。

しかしそういう気持ちに振り回されるのは、人間なら当たり前のこと。
でもそれでは世の中を生きづらくなるだけで、いいことなんかない。

「かけた情けが仇となる」という言葉がありますが、
そういう「情け」に付随する様々な感情に振り回されないように、
「巡り巡って関係のないところから自分へ返ってくる」
と考えた方が、健全な社会関係、「付き合い」を保つ事ができる。


「情けをかけた(かけられた)」という意識の獲得は全ての人のためにならない。
自分のためにする、と考えた方が健全である。
この言葉はそう説いているのではないのでしょうか。

これは私が落語の中で使われる様子から感じたことですので、
「学問的」には間違っているかもしれません。

しかし「寄席は浮世学問の場」と申します。
澁澤榮一翁は「落語は世態人情の機微を穿つもの」であると。
だとすれば、あながちこの解釈も間違ってはいないと思うんです。

まあこういうことをいちいち言うのは、「野暮な」物言いかもしれませんけれど。

でもこれだから、やっぱり古典落語は侮れない。
「現代の価値観に合わせる」、なんてことを
無自覚にやったりすると落語の「語」が死にかねない。
ということを改めて確認しました。

「唐茄子屋政談」の結末部分は落語家によって演じ方が変わるのですが、
それは次回の講釈、
「おかみさんを何故死なせてはいけないのか」にて。

2012年6月11日月曜日

6月の落語講座のお知らせ

来週6月20日(水)は月に一度のお楽しみ、
背中家腰楽の落語講座がございます。

今回は落語に入る前に、ちょっとした「仕掛け」を用意しました。
その中身は…当日のお楽しみ。

午前中はこちらにて、

場所  暮らしの学校

時間  6月20日(水) 10:30~11:30

電話  0120-511-533

WEB  暮らしの学校(講座ページ)


夜は、1階は特製自家焙煎コーヒー店、
2階は「ナマケモノ大学」を開催しているコチラにて


場所  喫茶スロース (JR蒲郡駅より徒歩分)

日時  6月20日(水) 20:00より 

電話  050-3598-6745

WEB  http://ameblo.jp/slothcoffee/

乞うご期待!

2012年6月8日金曜日

「マインドコントロールの恐怖」に隠される問題

「マインドコントロールはもう解けたのか」
「この時期の逮捕は都合の悪いことを隠そうとする
何者かによる国民へのマインドコントロール」
と喧しい今日この頃ですが、

本日の記事は、少し前にマスコミが

『女性芸能人が占い師と同居し、外界との関係を絶って、
TVにも出演しなくなり、家賃を滞納したり大変な事になっていたが、
家族が救出して一件落着!』

としきりに報じていたほうのお話が中心。
そして『マインドコントロールの恐怖』と。

この言葉は新興宗教や、わけのわからない治療法などで、
何らかの被害が起きて事件に発展した時に良く出てくるフレーズです。

マインドコントロールという言葉は直訳すれば「心理操作」ですが、
こういう場面で使われるマインドコントロールは、
「他者により、拒絶するのが困難な状況下で、
ある思想や考え方に誘導されてしまうこと」と定義されるようです。

うーん…、そうなると落語家の前座、見習いは
日々マインドコントロールを受けていることになりますな…

では「一般常識から逸脱し、社会の中で様々な問題を引き起こしやすい、
特殊な思想や考え方に誘導されてしまう事」と付け加えましょう。

これにも当てはまる落語家さん随分いますよ、という話は置いといて…

マインドコントールされている状況は確かに恐ろしいと言えますが、
本当に、マインドコントロールそのものや
「マインドコントロールする人間」が諸悪の根源なのでしょうか。

なぜその人がマインドコントロールされるところまで到ってしまったのか、
という視点で考えなければ、問題の本質は見えて来ないような気がします。

悩みや苦しみが自分だけで解決できない時、
人は誰かの助けを必要とすることがあります。
その「誰か」はまず親であり、兄弟、友人、
あるいはソーシャルメディアの知り合いかもしれません。
(それらの人が悩みの種である場合を除いてですが…)

必要な「助け」は、必ずしも具体的な「助け舟」ではないかもしれません。
いろんな話をしたり、一緒に過ごす中で、「苦しみ」が解消されることもあります。

しかし、たとえ友人や親が冷たい人間でなかったとしても、
その人の生きる希望につながる存在になれないことだってある。そんなとき、
「この人たちと一緒では解決できない(幸せになれない)」
と感じてしまう人もいるはずです。そうなると孤独感は深まります。

親にも友人にも自分にも解決できない「苦しみ」を抱えて、
赤の他人である占い師の前に立つ人の心はどのような状態でしょうか。

また、「誰にも解決できないものを抱えています、助けてください。」
というような人間を前にして、占い師はどのような感情に支配されるでしょうか。

占い師が「つらい思いをしている人を救いたい」
という動機でその職を選んだのであれば、実際に助けてあげられるかは別にして、
目の前の人に感情移入して、優しい言葉、
慰めの言葉、あるいは厳しい言葉をかけるのではないでしょうか。

その言葉が占い師の本心から出た(と感じられる)ものであれば
「この人は真剣に私のことを考えてくれている」と
占い師との間に信頼関係が生まれることもあります。

その関係の中で、今までになかった安堵感、納得感が得られれば、
「私を救ってくれるのはこの人だけ」となって「依存」する事もあるでしょう。
解決できない問題を抱え、どうしていいかわからない状態で、
導いてくれる(コントロールしてくれる)存在を探していたのですから…。

そうなると、今まで自分を導いてくれなかった、
もう既に占い師よりも信頼度の低くなってしまった、親や友人といった
周りの人が占い師を非難するようなことを言えば、
その人に対しては敵意を抱くかもしれません。

ここで依存させている側が、きちんと立ち直らせ、
自立していけるように導くことを念頭に置いていれば、
新聞沙汰になったりはしないでしょう。
まあそんな占い師なら、そもそも依存なんてさせない。
売れっ子占い師は、依存がどういうリスクを孕んでいるのかよく知っているはずです。

善意や同情心を持って一緒になって真剣に考えたとしても、
その人がキチンと生きていく道筋をつける能力が無ければ、
「人柄は良くても無能な指揮官」を妄信して付き従う兵と同じく、
待っているのは全滅(共倒れ)というひどい結末です。

昔の人はこういうことを「かけた情けが仇となる」って言ったもんです。

まあこれが悪党ならば、依存させたまま、人を支配する全能感に酔ったり、
財産をとことん毟り取るんでしょうが、
悪意の無いほうがタチが悪い場合だってある。

「この人のためにやっている」という意識が、
依存させている側の存在意義や正当性を保つ、
大義名分になっていることもあるからです。
こうした場合、起きている間違いがどんなにひどくても、依存関係にある双方共が、
完全に破綻するまで間違いに気が付かなかったり、見て見ぬ振りをしてしまいます。

こういったことは、一般的な人間関係でも起こりうることです。
私のような施術を生業にしている人間は、患者さんとの関係性において、
特に気を付けなくてはなりません。

そして、たとえ依存関係から開放されたとしても、
「占い師に頼るしかない状態に追い詰められた環境」
に戻るだけだとしたら…

「ひどいめにあったけど、マインドコントロールがとけてよかったね」
と部外者はそれでもいいのでしょうが、少なくとも近くにいる人は、
「大事な人が占い師にすべてを委ねることになった」
その意味をもう少し丁寧に考える必要があると思います。

2012年5月28日月曜日

「中国化する日本」で読み解く「大工調べ」

本日は、書評とそれを読んでの落語「大工調べ」への考察。結構な長文です。

先日(2ヶ月前だけど)、「日本のジレンマ」という
討論番組を見ているとき、ピクッときました。
「ん?こんなこと言ってる人今までいただろうか」

日本人の常識や行動原理の背景を冷静にみつめる歴史家の言葉に
「ああ、確かにそこから始めなきゃどうしようもない、
とにかくこの人の話を聞いておかないと」
となりまして、取り寄せましたのがこちらの本。














「中国化する日本」 與那覇 潤

この本が明示してくれるのは、今行き詰っているように見える日本社会で、
「これからなにができるか」という発想に到るための「どうしてこうなった」

ちなみに「中国化」と言っても「日本が中国に侵略される」とか
「中国万歳」みたいな話ではございません。

簡単に説明すると、いや簡単に説明できないんですが、
「中国化」=「自由主義で自己責任の社会」
そしてその対極としてあるのが、
「江戸時代化」=「封建制で自由はないが家職で食べていける社会」

歴史上、日本がどの時代にどのような社会を選択したのか。
それによってどう成功し、また失敗したのか。
この本は「中国化」と「江戸時代化」という二つの概念を用いて、
日本の「〇〇時代」の真の姿を実に明快な理路で解き明かし、
現代に連続する形で「日本史」を解説してくれます。

今まで日本史関係は歴史小説しか読んでない身としては、
「そういう視点があったのかぁ」と驚いた後で、勉強不足を恥じたりしまして。

しかもこの本に述べられていることは、著者一人の独創ではなく、
「プロの間では定説になりつつある学問成果」というのだから、さらに驚き。
私がこの本に書かれていることを耳にしていないのは、不勉強もあるのでしょうが
このような「学問成果」が現代の一般人にきちんと届くような形で
今まで提示される事がなかったからではないのでしょうか。

「古典落語」を現代人向けにわかりやすくしようと
妙な付け足しをする事で噺が破綻することがありますが、
こういう新作は大歓迎ですね。…落語と一緒にしちゃいけないか。

そして歴史の背景にある行動原理や社会構造を
現代につながる形で、現代の言葉に置換して理解する事で、
自分の規範や常識が「そこから来てたのか~」と身につまされたり。

「中国化」と「江戸化」は歴史認識を改めるキーワードでもあり、
それは同時に現代を正しく理解するキーワードとしても機能している。

この二つのキーワードで全てが説明できるわけではありませんが、
いや全て説明できたらおかしいんですが、
無自覚に受け継いでいる「行動原理」や「社会構造」に
名前を与えて「意識化」しなければ、間違いは繰り返されます。

日本人が現在の行き詰った社会と対峙するためには、
「中国化」「江戸化」は実に重要な視点であると思われます。

私なんかは落語の筋立てに対しても新たな視点が持てました。
例えば今月の落語講座の演目「大工調べ」。

『家賃を滞納したために道具箱を大家に持っていかれた
ちょっとぼんやりしている大工の与太郎。
仕事に出て来ない与太郎を案じて長屋を訪れたのは大工の棟梁、政五郎。
今は持ち合わせがないけれど、自分に免じて道具箱を返してくれと
大家に頼みこむのですが、言葉の行き違いから争いとなります。
「道具箱は渡せない、家賃全額を持ってくれば返してやる」
と、へそを曲げた大家は棟梁の「面子をかけた」要請をかたくなに拒絶します。
爆発した棟梁は啖呵を切って奉行所へ。果たしてお奉行様のお裁きは…』

という、落語の中では「政談もの」と呼ばれるジャンルなのですが、

「江戸化」の代表的性格を持つ棟梁と、
「中国化」的性格の大家の争いと見れば、
対立構造が実にわかりやすく理解できます。

一方は「困った時はお互い様」の家職を継いだ村社会の代表、
かたや、元はよそ者で成り上がりの経済自由主義者。

大家は元はこの本にも書かれている、農村の次男三男といった地方出身者、
食い扶持を稼ぐために家から出されて都会で働く事を余儀なくされた、
いわゆる「野暮」な田舎者だったかもしれません。

江戸という都会で安価な労働力は「フリーター」として需要はありましたが、
家職で暮らす生まれつき食い扶持を持ってる「江戸っ子」にしてみれば、
氏素性のわからない、金を稼ぐ(食べる)ために色んな事をする蔑むべき存在。
場合によっては自分よりいい暮らしをすることもあったりと面白くない。

「おれはあそこに顔を出したくなかったんだよ」と棟梁。

落語には田舎者を蔑むような表現が往々にして見られますが、
「江戸っ子」という強い身内意識の形成には、地方出身者に対して、
地縁という「絆」で既得権益を保持して対抗しようという
排他的な側面もあったのかもしれません。

でもこれ現代でもあてはまりますね、日本人の外国人労働者に対する反応とか…。

しかし、帰る家の無いよそ者は体を壊したら、たいがいは「野垂れ死」。
「かわいそうだからなんとかしてやりましょ」というセーフティネットしかない江戸時代。
「人情」が機能するのは「身内に対してだけ」という現実が、
この本でも挙げているような、田舎から出て来た奉公人の
非常に高い死亡率にもつながるわけで。

この大家がそんな「よそ者」から這い上がった存在だとすれば…

「私が頭を下げているんだから、渡してくれたっていいじゃないですか…」
と頭を下げる事でうやむやにしようとする棟梁の言い分は、
かつて生きるため、わずかな銭を稼ぐのに頭をペコペコ下げて、
低賃金でどんなことでもやった大家にしてみれば許し難いのは当然でして。

棟梁にしてみれば、身内意識という情を持たないような奴は許せない。
「てめえなんざ、どこの馬の骨だか、牛の骨だかわからねえ…」などと
「よそ者である」ことや「成り上がった」事実を、絶対的な悪と認定して、
啖呵の中で並べ立てます。やっぱり結構「狭量」な江戸っ子。

実際のところ大家の主張は筋が通っているのですが、
法より人情という社会では、大家が悪役になってしまいます。
もっとも世間のルールが理解できない与太郎にルールを適用する大家は、
都合の悪い人間は排除、という了見の狭い人であることは確かです。
演者によって大家を極悪人に描くかどうかが変わるのですが、
その辺りで演者の了見もわかったりします。

そして解決できない「江戸化」と「中国化」の対立は、
御奉行様の絶対的徳治に丸投げして、折り合いをつけてもらうという。

「道具箱を二十日余りも留め置かれ、老母一人養い難し」
と与太郎の母親を出した時点で勝負はついている。

本当は起訴権も裁判権も持っている奉行所が、法に基づかないで、
恣意的になりかねない「徳」で裁いたりしたら危険極まりないんですけどね。

ちなみに結末はというと、富の再分配。
…我々って現実の世界でもこういう物語を求めているような気がしません?
最近の新作落語を見てると、与太郎のような社会にうまく適合できない人間を
吊るし上げるストーリーのほうが腑に落ちる人もいるようですが…。

この落語では「与太郎」を愛すべき人物に描くことで、
他の登場人物の性格を際立たせることに成功しています。
「江戸化」にも「中国化」にも全くブレない与太郎の存在によって、
観客は二人の争いが泥仕合に陥っていることを理解出来ます。

じゃあ「与太郎化」…というわけにもいきませんが、
メンツや金に振り回され、結果的に自分を追い詰める周囲をよそに、
何があっても与太郎は与太郎であることをやめません。
悩み苦しんだりはせず、いつも暢気。それでいて憎めないときている。
私たちは与太郎の「心のゆとり」に学ぶべき所があるのではないのでしょうか。

講釈の「秩序」は一つですが、落語では複数形で描かれます。
道徳的な講釈へのアンチテーゼという側面も持つ落語は、
「とにかく江戸時代は人情があってよかった」みたいな単純な話にはなりにくい。

また落語という芸は、演者を通して物語が表現されることで、
作者すら意図しない「視点」を観客に示唆してくれることもあります。

そして「瞬間的大笑い」じゃなくて「クスッ」とくるから後で考えて、
色々と「ジワッ」とくる。やっぱり古典落語は後世に残したい「物語の表現」ですね。

とまあこんな具合に落語の解釈にも新たな視点をもたらす、
「中国化する日本」は杉田整体院の隣のBooks and crafts SARANAにも
入荷していますから、学生さんも、歴女も、右や左のおあにいさんも、
是非手にとって読んでみてください。とまあ宣伝なぞもしたりして。

「大工調べ」はネットで検索するといくつかの動画が見つかりますが、














やっぱり↑コチラの師匠がおすすめです。

2012年5月22日火曜日

(続)30年目の「大工調べ」

前回の「30年目の大工調べ」の続きでございます。

実は小学5年生の頃、この「大工調べ」を人前でやった時、
啖呵に入る直前で絶句したことがあります。
この日のことは今でもはっきりと覚えています。

それは自宅の2階で、数人の知らない方を含む大人の前でやった時のことでした。

その中に、柔和な表情をしているとても穏やかな方がいらっしゃって、
ニコニコと私の落語を聞いてくださっていました。
私はその方が視線に入る度にうれしくなっていました。

途中までは実に順調でした。ところが、
「いらねえやい!」という啖呵の最初のセリフが言えない。
セリフは一字一句覚えているはずなのに、言葉が詰まって出てこない。
兄が近くに寄ってきて、セリフを小声で教えてくれる。セリフはわかってる。
でも顔を真っ赤にして、青筋立てても、口から空気が漏れるだけで何にも言えない。

「もういいよ」誰かが言ってくれました。
ふうっと、やっとまともに呼吸。こんなことは初めてでした。

気分が落ち着いてから「最後までなんでやれなかったのかなあ」
自問自答したのを覚えています。いくら考えても理由はわかりません。
それからというもの、モヤモヤが晴れず、周りにも制止されるようになり、
ついには落語自体を人前であまりやらなくなっていきました。

30年経った今は絶句した理由がわかります。

その頃自分で演じていて感じる「啖呵」の気持ちよさには、
「人前で悪態をつく快感」のようなものが含まれていました。
そんなものを、その日初めて会った、目の前の穏やかな人に向ける事が
不意に恐ろしくなったんだと思います。それで絶句してしまった。

実際に啖呵というやつは、
いくらキチンとした江戸弁でも、演者の気が入ってしまって、
本気で怒っているようだと、聞き苦しくなります。
啖呵に振り回されない感情の制御が、演者には求められます。

まあ、全然制御不能の人や、落語を通して「人間の悪徳を見せる」
なんて開き直っちゃう落語家もいたりして…、いやはや。

江戸前の落語は「淡々と演ずるべき」という大前提があるのですが、
つまるところ、スーッとする、気持ちの良い啖呵を切るには、
「言葉をきちんと制御する技法」と
「感情を制御できる演者の了見」が大事なのだと思います。

2012年5月21日月曜日

30年目の「大工調べ」

先日は落語講座へのいっぱいのお運び、ありがとうございました。

今回の演目は「大工調べ」。

『家賃を滞納したために、道具箱を大家に持っていかれた大工の与太郎。
仕事に出てこない与太郎の様子を見に来たのが大工の棟梁、政五郎。
今は持ち合わせがないけれど、自分に免じて道具箱を返してくれと
大家に頼みこむのですが、言葉の行き違いから争いとなります。
政五郎は与太郎を連れ、奉行所へ「お恐れながら」と訴えてでますが…。』

話の登場人物は、「与太郎」、「政五郎」、「大家」、「お奉行様」

この中でも与太郎は「馬鹿で与太郎」なんて言われ、
呑気でぼんやりした人間の代表として、色んな落語に登場します。
そして落語には「人情噺」、「長屋噺」というような分類がある中で、
「与太郎噺」というジャンルもあるほどの人気者。

そういえば、私が志ん朝師匠に最初に教わったのも
「酒の粕」という与太郎の出てくる小咄でした。

落語家の世界では、物忘れや間抜けなしくじり(失敗)をすると、
「馬鹿だねえ~」の代わりに、
「与太ってるねえ~」なんて言われたりしましてね。

落語によって「与太郎」の性格はかなり変化するのですが、
私はこの「大工調べ」の与太郎が一番好きです。
只のバカではなくて「物語」に調和をもたらす存在になっています。

「大工調べ」は、私が小学3年生の時、初めて自分の小遣いで買った
古今亭志ん生師匠のレコード(当時1300円)に入っていた演目。
そして初めて人前でやった噺です。で、今回の上演は小学生以来30年ぶり。

この話の一番の聞き所は、棟梁が大家に向かって切る「啖呵」。

大家の悪口を並べ立てるのですが、
ポンポーンと飛び出す、立て板に水の江戸弁の啖呵は、
嫌味がなくって、そのテンポと調子が実に気持ちいい。

この啖呵というやつは「江戸弁」という表現方法が肝心だったりします。

これを標準語でやったりすると、「早口の暴言」になってしまい、
完全に笑いの質が変化してしまいますし、「暴言」を向けてもいいようにと、
大家を悪人にしてしまうと、聞いてて本当に嫌な気分になったりもする。

「古典芸能」の表現方法が、なぜそうなっているのかに目を向けてみると、
人が人に向けるべき適切な表現
を現代の私達に示してくれることがあります。間違っている場合も含めてですが。

実は啖呵を制御するには「技法」だけでなく、もうひとつ大切なことがあります。

小学生の私は思い知らされることになるのですが、それは次回の講釈にて。