2011年10月27日木曜日

落語家の徒弟制度と面従腹背

面従腹背 … 「面従」は、人の面前では、こびへつらい従うこと。
「腹」は、心の中。「背」は、背くこと。

簡単に言えば、表向きはへいこらして愛想良く振舞い、心の中では「なんだこのバカ」
と思っている状態です。

これは日本ではよくある話でして、会社の上司と部下なんかでもありますな。

落語家の世界はその最たるものでございまして。
まず徒弟制度では師匠が絶対的な存在です。
そして先に弟子入りした兄弟子もまた絶対的な存在です。

一日でも早く弟子入りした方が、兄弟子として君臨します。
16歳で高校中退して弟子入りしてきた、ちょっとぼんやりした少年がいるとします。
次の日に国立大学を卒業した22歳のしっかりした青年が弟子入りしてきたとします。
この場合、22の青年は、この16の少年を「兄さん」と呼ばなくてはならず、
基本的に一生涯その関係は変わりません。
ちなみに関西と違って「あにさん」と呼びますよ。

会社では、あんまりバカな人は出世はしにくいでしょうね。最近は。
性格の悪い人が出世することはあっても。

でも落語の世界は、弟子入りが早いか遅いかだけで序列が決まります。
もののわからない人間が、わかっている人間に指示をすることがあるわけです。
だから色んな理不尽なことが起きてくる。

1、言われた通りにやれば間違いが起きる。
2、言われた通りにやらないで「なんで言われた通りにやらないんだ」と怒られる。

このどちらかを選択しなくてはいけない場面にしょっちゅう出くわします。このときに、

3、「言われた通りにやると間違いが起きます」と文句を言う

という選択肢はありません。それは落語の徒弟制度の中ではタブーなのです。
しょうがないから1と2を天秤に掛けて、被害の少ない方を選びます。
まあだいたい2を選びますな。で、怒られる。そして、面従腹背。
すいませんとか謝りながら、もう心の中は罵詈雑言の嵐ですな。

このときにお腹の中に黒い物が育っていくかどうかは、その人次第です。
「ならぬ堪忍、するが堪忍」なんて理不尽を辛抱しても、心に恨みを溜めてしまう人もいる。

そういう世界で、ああこの噺家さんはいやな陰がないなあ、
という人に出会うと、正直立派な人だなあと尊敬しちゃいますね。

底意地の悪さが「芸」ににじみ出ている人の落語は
やっぱり心から楽しめないもんです。

談志師匠が「落語は人間の業の肯定である」と仰っているのをいいことに、
落語家個人の業を肯定して良いという話にすり替えてしまう人もいますが、
そんなことをしていたら、いつかお客さんに愛想をつかされると思うんです。

2011年10月21日金曜日

代替医療は「診断」できません

先週で最終回を迎えてしまいましたが、
毎回楽しみにして見ていたNHKの「ドクターG」。

実際にあった症例をリアルな再現ビデオで出題し、若い研修医たちが
経験豊富で優れた総合診療の医師に導かれながら
カンファレンス(症例検討会)をして、正しい病名を探り当てるという番組。

診断において何が大切なのかを教えてくれる
総合診療医たちの言葉はとてもためになるものでした。

もっとも法律的に「診断」をしていいのは医師だけですけどね。

代替医療の場合、言葉をかえて「見立て」なんて言います。
もともと江戸時代までの医者は診断のことを「見立て」と言っておりまして、
まあ意味合いは同じなんですが、そこは間違えちゃあいけません。
これを知らないと下手をすれば、うしろに手が回りますな。

見立てる上で、一番に考えなくてはいけないのが
「自分が手出ししてはいけない領域」、です。
主症状が肩こり、腰痛といったものでも
脳や内臓の疾患から来ていることもあります。
正しい治療を受ける機会を奪う事のないように、
自分を過信せず、客観的に判断する必要があります。

そういうものの見方について改めて考えさせてくれる番組でした。
ちなみに最終回の病名は「ウェルニッケ脳症」でしたが、
実はかなり早い段階でわかりました。やった、初めて当たった!

この病気をなぜ知っていたかというと、
「江戸患い」と言われた病気について以前調べたことがあったからなんです。

それは戦前まで、日本人の国民病と恐れられた「脚気」です。
ウェルニッケ脳症はビタミンB1が不足する事で起きる病気なのですが、
脚気も同じ原因で起きます。ビタミンB1について色々と調べていて、
それで知っていたというわけで。

麦や豆類、また玄米にはビタミンB1は含まれているので、
田舎の人は脚気にはなりにくかったそうです。
精米したお米、いわゆる「銀シャリ(白米)」ばかり食べていた江戸っ子は、
ビタミンB1が不足しやすかったのだ、とされております。

しかし脚気はかつて原因の分からない病でした。
明治時代に近代医学が日本に入ってくる中で様々な議論が起こりました。
脚気をめぐる医学界の混乱を見なおしてみると、
封建的で徒弟制度的な「学閥」というものの問題が浮き彫りになります。
うーん、この問題は今も変わっていないかもしれない…

2011年10月20日木曜日

志ん朝師匠の稽古

落語家は稽古をつけてもらっていない噺は演じてはいけない。
という暗黙のルールが、一応あります。

一応、というのは流派や師匠によってこの辺の
考え方は随分違ってるんです。

例えば先代の小さん師匠は(永谷園のCMご存知ですかね)
落語の稽古は滅多につけてくださらなかったそうで。
稽古をつけてくれると言ったら、剣道の稽古だった、なんて話があります。
芸は盗むものだから、自分でできるようになったと思えば
やってもよい、というスタンスだったそうです。
そのかわり他の師匠がやっている噺をやるなら、
了承を得てからやんないとダメだよ、
と仰ってたようで、そこは流石に筋が通ってる。

古今亭は(少なくとも志ん朝師匠は)3べん稽古というやつで、
まず、師匠が噺を3回続けてやってみせてくれます。
それを必死で覚えて、自分で練習をして、それから師匠に見て貰います。

とにかく志ん朝師匠が普段は絶対にやらない、
前座がやるような落語、いわゆる前座噺をやってみせてくれる。
もうそれだけで感涙ものでした。

ところが、いざ自分の落語を見てもらいますと…。
ほんの十数分の落語なのですが、とにかく直される直される。
どこが駄目なのか徹底的に、また論理的に指摘してくださる。

しかし一切の甘えを許さない指摘は、グサグサっと来る。
変な汗は出るわ、もうだんだんと息が継げなくなって、
稽古が終わる頃にはもうフラフラ。

今思えば弟子としてこれほどの果報はないんですよ。
そこまでやってくれる、またやれる師匠はそうはいません。

ただ、きちんとできなきゃあいけない、完璧にできないなら
弟子の資格はない。最初からできるわけはないんですが、
そう思って、私はどんどん自分を追い詰めちゃいましたね。

しかし「芸」というものを考えたときに、
受け継がせる「重さ」、受け継ぐ「重さ」があるうちは
やはりDVDじゃあ学べないものが、そこにはあると思います。

笑いが取れればいい、それで客がつくならプロの落語家だ、
という考え方もありますが、そこだけになったら、
「落語家」じゃあなくて、ただの「笑わせ屋」なんじゃあないのか、
DVDで稽古しながら、そんなことを思ったりします。

2011年10月17日月曜日

弟子の報酬

未だに残る厳しい徒弟制度の世界。
なぜそういう世界に飛び込むのか。

それはそこでしか得られないものがあるからです。

整体でも色んな学び方があります。
私は弟子入りをしましたが、一般的には講習会や学校に通って勉強します。
この場合、授業料の対価として技術を教えてもらえます。

しかし体を使う技術、感覚が大切な技術において、
肝心な情報は個人に属しています。
武道、料理人、落語家、整体師、
その中で、名人、達人と言われる人の技は
できるだけその人の傍にいて
繰り返し繰り返し鍛錬して
感性的な部分まで勉強しなければ
身に付けることは難しい。

情報はセミナーでも買う事ができるが、
この感覚の部分は一朝一夕では身につかない。
また公の場では秘技、秘伝は開示されないのが常です。

弟子になることでしか得られない報酬が確約されていることで
徒弟制度は成立してきたといえます。

私はどうせやるならば一番うまい人の下で
修行しようと、落語家、整体師と
弟子入りをするときには吟味させて頂きました。
師匠選びは3年かけろ、なんてよく申しまして。

しかし現在、落語などの演芸はプロでなくても
DVDなどの映像で勉強することが出来ます。
しかも名人と謳われた落語家の映像で(下手でつまんないとDVD化されない)。
つまり秘技秘伝だだ漏れ状態という。
だから落語協会に所属する落語家にはなれなくても
落語自体はうまくなれるというわけで。
社会人落語でも上手な人がこれから増えていくでしょうね。

しかしそうなると、落語家の弟子の報酬は、
「芸」ではなく「協会所属の落語家」という権益の獲得になってしまう。
さあ困った。
伝統芸能のアイデンティティーが脅かされております。

2011年10月13日木曜日

代替医療への期待

「先生の神通力で腰痛だけでなく肝臓までよくなりました!」
随分前のことですが、このように仰る方が来られたことがありました。

この方は来院する2,3年前から腰痛に苦しんでいました。
それが1ヶ月程度でかなりの改善がみられ、
それからさらに2ヶ月程経ってから肝臓を検査したところ、
今までかなり悪かった数値が正常になっていた、というのです。

「この整体は、肝臓を治せるぞ!」
あたしはそんなこたあ言いません。

現実として起きた事は

「整体を受けている期間に肝臓の数値がよくなった」ということ。

このことに整体の施術がどのように関係しているのかを考えないといけません。
私は患者さんにこのように話しました。

「腰痛が楽になって生活の質が改善されたことが一因かもしれませんね。」

その方の以前の状態は、
・腰痛で仕事がとてもつらいものになっていた。
・痛みのために好きなゴルフもできなくなっていた。
・そのために酒量が増えたり、悪酔いしていた。

これが腰痛が改善する事で、
・仕事がばりばりできるようになって楽しい。
・ゴルフも腰を気にせずできる。運動がストレスなく出来る。
・たのしいお酒になって、深酒もしなくなった。

腰痛のストレスから開放され、体が元気になった。
そしてなにより酒量が減った。
その結果として数値が良くなった可能性はあると思います。
またそれ以外の何かが影響しているかもしれません。
姿勢の改善や偏った体の緊張がよくなったことが
影響していないとは言い切れませんが、
それだけが直接的に肝臓へ作用する事は考えにくいことです。

このように申し上げると、少し残念そうなご様子でした。
この方が抱いた大きな期待とは違うことを私が言ったからです。

私は力添えをしたかもしれませんが、
自分で治したことに気がつかないで、すべて此方への期待に変換してしまう、
そんな関係性は適切とは思えません。既によくなっていることですし。

こうした患者さんの期待感に、施術家は流されそうになることがあります。

現実を客観的に見て、正しく判断する。
この視点を忘れないように気をつけませんとね。

2011年10月8日土曜日

代替医療と徒弟制度

前の記事で『代替医療のトリック(新潮社)』について書きました。
今回はどのような科学的根拠を提示されても代替医療が
「自分の治療は絶対正しい」
と思考停止してしまっている理由について考えます。

「師匠がカラスを白いと言ったら、お前も白いと言わなくっちゃあ駄目だよ」
これは私が落語家になる前に言われた言葉です。

落語家や植木職人といった世界では徒弟制度というものが残っています。
弟子入りして師匠の身の回りの世話をしながら色々教わっていく。
そこでは師匠の言う事は絶対的な力を持ちます。
どんなに理不尽でも師匠の言う事には「ハイ」と言わなくてなりません。
もし文句を言えば破門され、道が閉ざされてしまうからです。
そしてその力関係は生涯続きます。

師匠に逆らわず、言われた通りの事をそのままやっていくというのは、
技術の継承という点では優れている部分もあります。
しかし教えられたことが間違っていた場合は、間違いも受け継ぐ事になります。

そして代替医療の多くは「徒弟制度」的な部分が色濃く残っています。
かつては医学界もそうした面を強く持っていました。(今もありますが)
偉い先生は神格化され、絶対視されている事が少なくありません。

その先生が、「あらゆる病気はこの治療で治せる!」
と宣言した場合、誰も反論が出来ず、
それが検証もされないまま受け継がれてしまう事があります。

カイロプラクティックの創始者、D.D.パーマーは
「あらゆる病気の95%は、椎骨(背骨)のズレから生じる」
そう述べています。そしてそれはカイロプラクティックで治せると。
これは約100年前のことです。

そして程なく日本にカイロプラクティックが入って来ました。
ほねつぎの先生など日本の手技を用いる代替医療の施術家の中には
カイロプラクティックを取り入れる人もいました。

その結果、「病気は椎骨のズレから生じる」という説が伝わり、
「カイロプラクティックが治せるなら、うちのやり方でもいける」
という便乗派も含めて、徒弟制度の中でその説が受け継がれてしまった流派が、
今でも、「なんでも治せる」と宣言をしている場合があります。

もちろんそれ以外の流れで、自分の施術を過大評価している代替医療は
無数にありますが、基本的に
「創始者、偉い先生が治ると言っているから」
という考えが元になっています。

アメリカ由来であるカイロプラクティックは
現在は「何でも治せる」とは言っていません。
団体が大きくなる中で精査が進んだということもあるでしょうが、
こうした傾向は封建社会が長く続いた
日本ではより強く見られるものかもしれません。

私は昔、「なぜそんないいかげんなことを言うのか」と
大言壮語する代替医療に怒りを禁じ得ませんでした。
しかし自分のしていることに疑問を持ちにくい制度があり、
それがそこから脱する事が困難なシステムであると気付いてからは、
冷静に見る事ができるようになりました。

私に出来る事は、そういうシステムの存在をきちんと認識し、
自分のできることを把握し、正しい判断をする。
そういった視点を持ってください、と言い続けることだけです。

しかし問題は他にもあります。施術家の目を曇らせる
「代替医療に過度の期待をする人々」の存在です。

それはまた次回のお話。

2011年10月6日木曜日

明日の講座

いよいよ明日は「暮らしの学校」にて講座です。

講座の時間中は整体院を開く事ができませんので
明日の10時から12時までの2時間はお休みとさせて頂きます。
予約の電話は受けられます。

落語家をやめ、整体の世界に身を置いて15年。
落語の笑いがもたらす効果は、健康にも人生にも
非常に有益なものであると考えています。

ライフワークとして続けていけるよう
肩の力を抜いて、でも真剣にやって参ります。

2011年10月5日水曜日

「代替医療のトリック」を読んで














『代替医療のトリック』 サイモン・シン  新潮社

代替医療とはどういった医療なのか。
読んで字のごとく通常の医療の代りに用いられる医療、
簡単にいえば西洋医学に基づかない全ての療法のことです。
「民間療法」と表現されることもあります。
鍼灸、ホメオパシー、ハーブ療法、カイロプラティックなど
数えきれないほど、たくさんの代替医療があります。
私がやっている「整体」も代替医療です。
この本は代替医療が「本当に効くのか」を科学的根拠に基づいて検証しています。

特筆すべきは、理論的に証明できなくても、
本当に効果があるなら有効な治療法であると認める、
真実を追究するという立場で検証しているところです。
そこが単なる代替医療批判本ではないところです。

この本はまず病気というものを考える上で、科学的、客観的な見地が
いかに重要であるのかを述べています。
かつて医学は迷信を含んだ極めて曖昧なものでした。
この200年で科学的な物の見方をすることで、
正確で間違いを起こしにくいものに進歩しました。
ところが代替医療の世界は、昔の医学がそうだったように
迷信や明らかな矛盾がそのままになっています。

そして様々な科学的検証から得られた代替医療の真実の効果は…

結論から言えば、この本に書かれている検証の結果は、
多くの代替医療にとって望ましいものではありません。

それでも全ての代替医療の施術家はこの本を読んで、
胸に手を当ててみたほうがよいと思います。

「科学で全てが証明できるわけではない」
「目に見える世界しか信じないのは心が狭い」
このような反論しかできないようであれば、
その人は、
「目に見える世界を見ようとしない、正しいものの見方ができない人間」
という評価をうけることでしょう。
反論する前に、ほとんどの代替医療は科学的な検証に耐えられない
この現実を受け入れなくてはなりません。

代替医療が謳っている様々な効果。
それらは私の知る限り、

「創始者や立派な先生が言っていたから間違いない」
「思想や考え方が素晴らしい治療だから間違いない」
「(代替医療の)教科書にそうだと書かれているから間違いない」
「ある医者が認めているから間違いない」
「自分で効果を実感しているから間違いない」
「自然に由来するものだから間違いない」

せいぜいこの程度の個人的な感想に支えられているものでしかありません。

なぜ代替医療が根拠に乏しい自説にこだわり
現実を正しく見て、客観的に判断することができないのか。
それはまた次回のお話。

2011年10月3日月曜日

十年一昔

今月の一日で、古今亭志ん朝師匠が亡くなられて
ちょうど10年になります。

近年の落語ブームのせいか、若くても落語が好きという方が結構いらっしゃる
のですが、志ん朝師は知らないという人もチラホラ。
時の経つのは早いものとはいえ、寂しいですねえ。
DVDやCDで若い人にも聞いてもらいたいものです。

私が矢来町のお宅の門を叩いて
弟子入りを許されたのが16年前の事でした。
その頃は本当にお元気でしたが、疲れたときなどは
よく体を揉ませて頂きました。
「揉むのがうまい」なんて珍しくほめられたりしまして。
だから落語家やめて整体師になったわけじゃありませんけど。

亡くなる一年ほど前に、岐阜に来られる事があり
楽屋に挨拶に行きまして。
少し痩せておられましたが、いつもの志ん朝師匠。
ただ周りにいる方の様子と、高座を拝見して
体が本調子ではないことが感じられました。
そして…

私はやめたから言えるんですが、
芸ある者のみが持つ孤独と苦悩、
それを高座では微塵も感じさせない方でした。

本寸法の「落語」をきちんとやってのけることがどれほどのことなのか。
「笑わせ屋」じゃあない「芸」の凄み。
私が傍にいて垣間見たのはそういうものでした。