2011年12月26日月曜日

食べる前に飲む!?

師走になるとやってくるCMがあります。

「食べる前に飲む!」なんてやってるアレです。

忘年会などの多いこのシーズン、
飲みすぎ食べすぎからくる胃もたれを防ぐために、
先に〇〇漢方胃腸薬を飲んでおこう、というわけです。

私にも身に覚えがありますが、
わかっていても飲みすぎたり、食べ過ぎたりしてしまうことはあります。

でも胃腸薬を飲んで、暴飲暴食をする、というのはやっぱり本末転倒ですよね。

「つきあいの多いこの時期だから…」とか言いますけど、
胃を痛めるほどの食べっぷり、飲みっぷりを見せる、
というのも、いかがなものかと。

付き合いの席で、飲みすぎたり食べ過ぎたりしたことが、
病を引き起こす一因になったとしても、責任をとるのは自分自身なわけでして。
そこんところを気をつけなくちゃあいけません。

2011年12月21日水曜日

「たけしのみんなの家庭の医学」で紹介された腰痛の本当の原因

 昨日のたけしの健康エンターテインメント!みんなの家庭の医学』は
「長く治らない症状、本当の原因をもう1度探ります」と題したスペシャルでした。


最初に取り上げられたのが「腰痛」。
ついに民放も「ためしてガッテン」に続くのかと。ほのかな期待。
(腰痛の常識を否定した「ためしてガッテン」の記事はコチラ)


「治らない腰痛の原因は、腰ではなく○○にあった」というテロップを出しながら、
再現VTRで、ある方の腰痛の原因を追っていきました。
最初の整形外科の診断は「腰椎すべり症」。
投薬やリハビリを続けてもよくならず、ある朝ちゃんと立てない状態に。


そして大学病院でセカンドオピニオン。
ついた病名は「脊髄腫瘍」。
第十胸椎という腰より少し上の部分にできた腫瘍が痛みの原因だったのでした。
結論、「腰痛の本当の原因は脊髄腫瘍だった!」 (`・ω・´)キリッ


ズルッ(ノ_ _)ノ
…TVでそれをやりますか。


今日あたり、日本中の整形外科は検査の予約で、てんてこ舞いかもしれません。


この番組、以前は『最終警告! たけしの本当は怖い家庭の医学
というタイトルで放送していました。
何万人に1人という病気を取り上げては、
そのまま放って置くと、大変なことになりますよなどと言うことから
視聴者の不安をあおっていると、医療関係者の間でも評判がよいとは言えない番組でした。
そうした批判もあってか、番組のタイトルも変更し、
健康増進を中心にした番組にしたところ視聴率は激減。
それで以前のような番組にもどりつつあるのでしょうか。


脊髄腫瘍に関するデータを調べると、発症率は10万人に1~2人とされています。
そのうち腰痛を引き起こしているものは、さらに限られているはずです。
もちろん何十万分の1でも、なる人がいるのは事実。
そうした人が早く適切な治療を受けるのは大事なことです。


10年以上前のことですが、私が修行していた整体院に
「脊髄腫瘍」の方がみえたことがあります。
もちろん脊髄腫瘍かどうかはわかるものではありませんが、
動きや症状をみると、通常では起こりえない異常がありました。
すぐに精密検査を受けるように勧めましたが、いろんなところで検査しても、
原因がわからず、「脊髄腫瘍」が見つかったのは半年程してからでした。


番組に出演した先生にみてもらっていれば、もっと早くわかっていたかもしれません。
首の痛みや腰痛の原因として「脊髄腫瘍」があることを、医師は知っておく必要があります。


しかし「脊髄腫瘍による腰痛」は、極めて稀なケースであるという事実。
このことにほとんど言及しないで、腰痛の本当の原因は脊髄腫瘍だった」
TV番組で放送する事が正しいことといえるのでしょうか。


不安を煽られた人たちは、全くリスクがない状態でも、
検査をするまで納得しないかもしれません。
全国の良心的なお医者さんは
「滅多に無い事で、あなたの症状なら検査しなくても大丈夫です」
と説得するのに苦労していることでしょう。
「不安なら検査しましょう」とバンバン検査しているところもあるかもしれませんが。

そして出演された先生は「ヘルニア」に関して、「自然消失すること」は認めていましたが、
腰痛原因としては肯定していました。

医学界でコンセンサスが得られていないのは、よくあることとしても、
「ためしてガッテン」などでヘルニア原因説の矛盾が社会的に明らかになっている以上
「ヘルニア」を腰痛原因とするならば
「痛みのない人にもヘルニアがある」
「手術をしてもよくならない人がいる」
という事実に対してきちんと答えるべきだと思います。
今回の「腰椎すべり症」は腰痛と全然関係なかった、ということも完全にスルーしてましたし。

結局、何十年も変わらない「しばらく様子を見て、治らなかったら手術」では、
どんなに低侵襲(ダメージの少ない)の手術だとしても、
「都合の悪い事実から目を背けている」
と、信頼されないと思うのですが。

2011年12月12日月曜日

昨日はチャリティー落語会、ありがとうございました

昨日はご近所さんのスタジオ dolce nodoにてチャリティー落語会。
いっぱいのお運び、誠にありがとうございました。
御婦人方が多かったのですが、若い学生さんも楽しんでくれたようでして。


会が終わった後に、1人の学生さんが興味を持ってくれたみたいで、
「最初に覚えた落語はなんですか?」って、聞いてくれまして
なんともうれしいですねえ。
大工調べ…って言ってもそりゃ知らないよね。


私が落語が好きになったのは、小学1,2年生のとき。
親が好きで寝るときに落語のテープが必ずかかっていました。
その頃聞いていたのが、春風亭柳橋師匠の「時そば」。
他のテープもあったのですが、365日ほとんど「時そば」を聞いていました。
そこでだんだんと落語の面白さにはまっていきました。


まず何度聞いても飽きない。
これが本当に不思議。
漫才やコントなんかは2,3度見れば飽きてしまうのに、
落語は何べん聞いても同じところで笑ってしまう。


飽きの来ない落語の笑いは、物語の奥深さもさることながら、
「言葉の調子」という旋律の心地よさにあると思います。


自分の考えたマクラ(本編の前フリの話)がドカンと受けると、やっぱり充足感はあります。
それでも落語の本編のほうがキチンと受けてもらえると、
自分が子供の頃に最初におもしろいと感じた、
古典の「言葉の調子」も伝えることができたのかな、とうれしくなります。


思い出したり、考えながらやっていると、
なかなか「調子」はつかないので稽古が大事なんですが、稽古の時間も限りがありまして、
今はあまりネタを増やさないようにして、この辺は調節しています。


今回は50人、今年は多い時は120人の前で、毎月の講座は十数人と、
それぞれ楽しくやらせて頂いています。
人数や年齢層が違う事でいろいろと発見があり、やっていて実に面白いですな
私はそんな風に落語をやれる日が来るとは、思ってもみませんでした。
落語だけに帰属していたら、こうはいかなかったかもしれません。


それにしても今回の会場は素晴らしいところで、
岡崎イオンから数百メートルの場所なのですが、
緑に囲まれて、閑静な、とても雰囲気のある
音楽教室のホールでやらせて頂きました。


寺尾先生を始めスタッフの皆様方、
本当にありがとうございました。

2011年12月1日木曜日

ピンピンコロリと日本人

今日は健康のお話。

みなさんPPKってご存知ですか?ワルサーPPK(007の拳銃)じゃありませんよ。

ピンピンコロリの略だそうでして。

「毎日ピンピンしていて、ある日突然コロリといく。」
日本人が望む死に方のナンバー1ということで
只今多くの方々に支持されている考え方です。

ピンコロ地蔵なるものもあるそうで、全国から参拝客が引きもきらない状態だとか。

なるほど、ピンピンコロリといけば
「病気で苦しみたくない」
「介護で家族に迷惑をかけたくない」
という日本人が恐れる、この2つの事態を避けられます。

しかしピンピンコロリは本当に「幸せ」なのでしょうか。

ヨーロッパではガンで死に至ることを厭わない人が多いと聞いたことがあります。
それは「家族との別れの時間を大切に過ごしたい」からなのだといいます。
そのような死の受け入れ方ができる文化の中では、
ピンピンコロリは忌み嫌うべきものなのかもしれません。

そもそも「ピンピンコロリ」という願望は、果たせる保証はありません。
今は病気もなく、元気で有難い。でもどうなるかはわからなくて不安。
「ピンピンコロリになるといいな」と、ピンコロ地蔵に参拝して、安心する。

果たしてそんな人が死に至る病を受け入れることができるでしょうか。
日本人は3人に1人はガンでなくなります。ガンの多くはコロリとはいきません。
お医者さんもPPK運動を推進するのも結構ですが、
PPKじゃないときに、どのように病気を、死を受け入れるのか、
少なくとも医者は冷静な心で、それを考えないといけないのではないのでしょうか。

最近日本でも「ピンピンコロリはお別れができない」という意見があるせいか、
「ピンピンしてて倒れて、一週間でみんなにお別れして、ニコッとコロリ」がいいね、
なんてことを立派な先生は仰っているようです。


…そんなにうまくいくわけねえじゃねえか!
おっと失礼。
でもこれは願望をただ述べてるだけです。

「日本人は死を受け入れられないから、ガンを告知しない」
としていた90年代以前から何も変わっていないのかもしれません。

実際に「安心」を求めている日本人が多い。
どのみち日本人は死にまつわるシビアな現実を受け入れられない。
だからその時が来るまでの間だけでも、せめてストレスを与えないために、
「とにかく安心させること」は現実に即した、正しい医者の振る舞いである。
というのがお医者さんの本音かもしれません。

けれども本当にこのままでいいのでしょうか。

死を共に受け入れてくれる家族もいない、「死」が個人の恐怖でしかない社会、
最期がそんな孤独で苦しいものになってしまうような社会。
そんな中で、望んだところでどうにもならないピンピンコロリを夢見るという、
現実逃避で安心することは正しいことなのでしょうか

今の「安心」のために、そういうことにきちんと向き合うのを避けていては、
100年経っても何も変わっていないかもしれません。

2011年11月28日月曜日

喫茶スロースさん1,5周年おめでとうございます

一昨日、お座敷がかかりまして、お賑やかしということで一席、落語をやらせて頂きました。

喫茶スロースさんの1,5周年記念パーティー。

JR蒲郡駅前にある喫茶スロースさんは、
1Fは特製自家焙煎コーヒーを頂ける喫茶店。
2Fは語学、読書会、珈琲などの様々な教室を開催している
その名も「ナマケモノ大学」 (詳細はスロースさんのページで→コチラ)
スロースとは、「ナマケモノ」のことだそうでして。

1周年でも2周年でもなく、1,5周年。
なんともゆったりとした「スロース感」、いいですな。

宴席やお祭りは、落語家にとっては鬼門と言われております。
酒飲んで酔っ払っていたり、大騒ぎしている席では、
「毎度ばかばかしいお笑い、一席お付き合い願います」
なんて言っても、そりゃあ付き合ってもらえるもんじゃあありません。

もう50年前の話ですが、かの古今亭志ん生師匠(志ん朝師匠のお父上)、大師匠は
プリンスホテルで行われた読売巨人軍の優勝祝賀会の余興を、
騒がしくならないように、飲み食いが始まる前なら、という条件で引き受けた。

ところが座布団は用意してない、
料理は運ばれていて飲み食いは始まる、
テーブルだから背中を向けて座っている、
カーッと血がのぼって、脳溢血で倒れてしまいました。

これは頼んだ人とプリンスホテルがいけません。

一昨日の私の落語は、本当に気持ちよくやらせていただきました。
私からは何も言わなかったのですが、
ガチャガチャしないように、落語の間は料理を運ばないことに
してくださったり、先に座布団をセッティングしていただいたり、
プリンスホテルとは気遣いが大違い。

パーティーに参加されていたみなさんも別に落語を聞きに来たわけでもないのに、
また落語を聞くのは初めて、という若い方も多かったのですが、ご静聴いただきました。
こちらも巨人軍の皆様とはずいぶんと違うようで。

集まられた方達は、同志といいますか仲間といいましょうか、
とてもいいコミュニティがそこにあるように感じました。

そういう人たちの前で落語をさせて頂けたのはうれしいことでした。







終わった後の記念撮影にて






帰り際に若いお嬢さんが
「とっても面白かったです!顔が!」って、たははっ。
でもすごく落語に興味を持ってもらえたようで、何よりそれが有難かったですね。

2011年11月25日金曜日

続・腰痛手術は日本社会が選んだ?

以前の記事、腰痛手術は日本社会が選んだ?で、
社会の中で腰痛手術が求められた、と述べました。

前回の話で触れなかった重要なポイントの補足です。

腰痛の手術が、腰痛患者の社会に対する免罪符として求められた
理由として、もう一つの重要な事、それは、

「腰痛は目に見えない」

ということです。

「痛み」は自覚症状です。何かが刺さってるとか、骨が折れている場合は、
他人から見ても異常がわかりますが、ほとんどの腰痛は見た目ではわからない。

つまり、「痛い」ことをいくら主張しても、第三者に対する証明はできません。

そういうとき周りの人間はどう見るのか。

「怠けているのではないか」
「嘘をついて楽しようとしているのではないか」

といった疑いを持つ人もいる。

腰痛は環境やストレスによっても増減しますので、
症状に波があったり、みんなで遊びに行ったときには痛くなかったりする。
その様子を見た周囲はさらに疑念を深めて、

「遊びの時はなぜか元気だ、おかしい」

となれば、周りからの風当たりが明らかに変わってくる。

そうなると、「嘘なんかついていない」、と原因を究明しようとする。
検査をして「ヘルニア」があれば一安心。
「ヘルニアだと診断された、私の腰痛はヘルニアだ」と大っぴらに言える


「ヘルニア」という病名、そしてその手術が、
「自分が本当に腰痛であることの証明書」という役割を担っていたわけです。


ところが「異常ナシ」と診断される人もいる。
何も異常がなくて病名がつかないなんて社会的に困る。
だいたい痛みがあるのに「異常ナシ」は納得できない、そう考えるのはまあ当然です。

「そんなわけはない、何かあるはず、異常を見つけられないこの先生はヤブ医者かも」

お医者さんも見くびられては困るので、とにかく異常を見つけようとする。
じゃあCTもやろう、あの検査も、この検査も、と色々調べることになる。

その結果として、脊椎(背骨)の異常が発見されるケースが増えてきたのではないのでしょうか。
ヘルニア以外にも、脊椎の異常とされる病気はたくさんあります。
「脊柱管狭窄症」「脊椎分離症」「脊椎すべり症」…etcetc。

その中で、「はっきりと痛みとの関連性が実証された」とする病気を
今のところ私は知りません。(関連しているケースが無い訳ではありません)
ただ腰の痛い人を検査すると見つかることがある、というだけです。
ヘルニアのように痛みのない人を調べても見つかるかもしれません。

今回のヘルニアの件からもわかるように、
画像診断でいくら神経を圧迫しているように見えても、
痛みと全く関係していないことがあるのですから、
全ての画像診断は痛みとの関連性においては再評価する必要があるはずです。

そういう研究は、腰痛に関しては多くの検査が
不要になるという結果をもたらすかもしれません。
そうなれば医療費だって軽減できる。

検査機器を導入している病院は損害を被るかもしれませんが、
「検査」は病院の商業的な利益の為にあるのではないはずです。

それに、患者が求めているから、医師として異常を見つけなくてはならないから、
「病名がつくような異常を探す」
というのはあまりにも本末転倒しています。

こういう構造をおかしいと思う先生には、是非
「全ての脊椎の異常」と「痛み」の関連性について調査を始めてもらいたいのです。
そして、なるべく早く事実を周知してくれることを望みます。

十数年後に、また「ためしてガッテン」で

「脊椎の異常に関する大誤解」、とか本当に勘弁して頂きたい。

2011年11月22日火曜日

「ためしてガッテン」への医療、代替医療の反応を考える

先週のためしてガッテン「驚異の回復!腰の痛み」をご覧になった方は多いようで、
患者さんも随分と話題にしていらっしゃいました。

さすが平均視聴率17%以上の番組です。
0.1%以下の日もある「きょうの健康」とは影響力が違います。

「先生が前から言ってきた事が、ついにテレビでやりましたね」

と言われても、これまでの被害を思うと、なんとも重たい気分です。

前回の記事で、間違えた理由を検証もしないで…、という話をしましたが、
番組に出られた先生方を批判するつもりはありません。
どういう意図であったにしろ、少なくとも「ヘルニア」に関しては、これ以上
手術をして後悔する人が出るのを防いでくれたのですから。

なんにせよ、国立大学以外の先生が、

今までの医学の常識を、視聴率の高いテレビ番組で大々的にほぼ完全否定した。
(これは国立大学の先生には、そもそもできないことかもしれませんが)

もうそれ以上の追及ということはできないんでしょう。


先日の放送に対する医療業界の反応を、ネットで調べて見ると、
スルーしている所が大半です。まあ反論の余地はほとんどありませんからね。
逆に手術に反対していた医師、あるいは代替医療の先生には意気軒昂の方もいる。

「そら見たことか、今さら何を言っている」

と批判した上で、

「我々が前から言っていた様に、筋肉と心を治療すれば治るんだ」(○○整形外科)
「脳の一部が問題なら、頭蓋骨調整で脳の血流をよくする私のやり方で絶対治る」(○○整体)

と都合のいい箇所をピックアップして我田引水。うーむ。
「自分は正しかった」と言いたい気持ちはわかるのですが、


もう「○○で治る!」と断言するのはやめにしませんか。

「絶対に治る」と期待して「治らない」ことで追い詰められる人がいるんです。


私には「○○で絶対治る」の○○に入るのが、「手術」から
別の「△△療法」に変わっているだけにしか思えないんです。

「確率的に他より治している」
「手術より危険はない」
というのは詭弁だと思いますよ。

ためしてガッテンに出演していた方も、
「近くにある湖に、何度飛び込もうと思ったことか…」
と仰ってました。

私は仕事の中でそういう方に幾度と無くお会いしてきて、
「治る確率を上げること」以上に、「治らない事で追い詰められる人を生まない」
ということが一番大事だと思うようになりました。

「絶対治る!」という宣言は、一つ間違えると苦しんでいる人を
さらに奈落へ突き落すこともあるのです。

そして、この番組で紹介された、
「ストレス改善によって、腰痛は自分で治せることもある
という事をもっと積極的にとりあげるべきではないのでしょうか。

自分で治せれば治療に行く必要はありません。
それが患者さんにとってはベストです。

「やっぱり私は正しかった」「私のやり方で治せる」と主張をしておいて、
自分の仕事(商売)に都合の悪い事実はきちんと取り上げようとしない。

そんなことでは、今まで「ヘルニア」の真実を積極的に知らせようとしなかった人達と
やってることはある意味一緒だと思うのです。
いや、もっと「たちが悪い」と了見を疑われたって仕方がない。

「誰の為にやっているのか」、という視点がまず「患者さん」に向いていなければ、
通常医療でも代替医療でも信用されなくなるのは当たり前です。
自分の治療の正当性を主張する前に、やるべきことがあるのではないでしょうか。


「腰痛は自分で治すこともできる」
そういう、「起こり得ること」をまず知ってもらう。その上で、

「こういうサポートの仕方がある。しかしそのやり方が全てではない」

と、事実をきちんと伝えること。
これが、通常医療であろうが、代替医療であろうが、
人(患者)と向き合う上で、必要な前提だと思います。

2011年11月17日木曜日

ためしてガッテン「驚異の回復!腰の痛み」に見る医療の姿勢


今朝から日本中の整形外科は、手術キャンセルの対応で、てんてこ舞いかもしれません。

昨日放送された、NHKのためしてガッテンは、腰痛を抱える人にとっては
ちょっとビックリする内容だったのではないでしょうか。
(ご覧になっていない方は番組HPに詳しく紹介されています→コチラ
再放送は【22日深夜】午前0時15分~1時00分)
お知り合いでヘルニアの方がいたら是非教えてあげてください。

何と言っても、

「ヘルニアは腰痛の犯人ではない」

「ヘルニアはほうっておいても消失することがある」

という事実を視聴率の高いテレビ番組が言ってのけたのです。


番組を見て最初の感想としては、よくあそこまで言えたなあと。

「腰痛がない人にもヘルニアがある」という事実は私が整体の修行を始めた
15年以上前でも、新聞の健康関連記事で取り上げられることはありました。

しかしそうした主張をする医師は、日本の医学界では少数派、異端だったのです。
また医学界で「今まで間違えてました」と言うのは極めて難しいことなんです。
そこには先人や組織が正しいとしてきたことを否定できないシステムがあります。
(徒弟制度の弊害、ブログ記事は→コチラ)日本の大学はさらに複雑かもしれません。

この番組で「きょうの健康」にも出ておられた
愛知医科大学学術的痛みセンター教授の牛田享宏先生は、
「ヘルニアが自然消滅する」という事実を「最近わかってきた」とおっしゃっていました。
このこともやはり10年以上前から新聞などで取り上げられることはありました。
2002年頃のNHK「きょうの健康」でも、出演していたどこかの大学の先生が
このことをボソッと言ったのを記憶しています。

徒弟制度的構造が少し変わってきたこと、
さすがにおかしいと思う先生が増えてきたこと、
多くの国内のデータが揃って来たこと、
おかしいと思う先生がある程度の地位についたこと、
さまざざまな総合的状況が変化して、

やっと最近、日本で大々的に言えるようになった、ということなのでしょうね。

でも山瀬まみちゃんが言っていました、
「今までに手術しちゃった人がかわいそう」

ホントですよ。

なぜ今までの説が支持されたのか。
どういう社会背景があったのか(前回記事→腰痛手術は日本社会が選んだ?)
なぜ医学界やマスコミは事実を早く知らせなかったのか。
そういう検証はしないでおいて、ヘルニアに対する「国民的大誤解」とか仰る。


「国民的大誤解」って?


誰が誤解させたの?


「○○に対する国民的誤解」で済ませておいて、しれっと、「最近はこんな学説があります」


15年以上前から警鐘を鳴らしている人達がいたのにも関わらず。


間違えた事に対する検証がなされなければ、
この「○○」にはひょっとしたら、これから先いろんな違う言葉が入るかもしれません。
しかし後になって、悩み苦しむのは一人一人の「患者」です。

こういう構造の中で、ひどい目にあわないためには、
まず個人がフラットな視点で、自分自身で情報収集しないといけない、ということです。
今回番組で取り上げた事実の多くは、何年も前からネット検索でも知ることができました。


一つ早めに言っておきたいことがあります。
今回「ヘルニア」は腰痛原因として大々的に否定されました。
実は私の整体院でも、病院でヘルニアと診断されてお見えになる方は
この2、3年で随分と減ってきています。
それと反比例して増えているのが、あの『みのもんた』も手術した「脊柱管狭窄症」です。

ところが「脊柱管狭窄症」という病名がついているにも関わらず、狭窄症の特徴的な症状のない、
10年前なら絶対にこの病名がつかなかったような状態の人が最近あまりにも多すぎる。

かつての「ヘルニア」のように画像診断だけで病名を決定するようになったのではないのか?
そう疑わざるを得ないような「脊柱管狭窄症」が増えている。

この件はまた詳しく書きますが、

「それ見たことか!」なんて事実はもうゴメンなんです。
手術をして後悔している人を何百人も見ている身としては…。


今回紹介された、ストレスの改善が腰痛を楽にしてくれるということ。
犬を飼ったりするような、好きなことを見つけること。
そんなことで治る人もいる!という事実をまず知ることが、
ヘルニアの呪いから解き放たれる第一歩です。
とりあえずリスクはない治し方ですし。

そして、それでよくならないときに、医療がバックアップする。
それもはっきりしていない以上は、なるべくリスクの少ない治療を選択する。
私は現状では腰痛治療に対する姿勢としては、それが一番正しいと思います。

2011年11月15日火曜日

腰痛手術は日本社会が選んだ?

今日は腰痛手術のお話。まじめな話ですよ。

前にヘルニアの手術がなぜ医学界で支持され続けたのかについて、
少し意見を述べましたが、(詳しくは→コチラ)
今回はちょっと視点を変えて、社会的側面から考えてみたいと思います。

腰痛において、手術という治療手段はヨーロッパでは以前から
ほとんど行なわれていませんでした。腰が痛い人がいないわけではなく、
医学界が、腰痛で手術というリスクをとるのは間違っている、という分析をしていたからです。
また社会も「腰が痛くてなんで手術するの?」という風潮だったそうです。

日本はヨーロッパの何十倍もの確率で腰痛手術をしていた。
これはリスクとリターンのバランスを考えずに手術を支持し続けていたことが一つの要因です。


そしてもう一つは社会の問題があると思います。

今から10年前には患者さんの中に、
「手術をしなければクビだ!」
と会社に強要されていた人が少なくありませんでした。


どう考えても「手術をしなければクビだ!」はおかしいですよね。


「腰痛が治らなければクビだ!」があったとしても。


これはどうも会社は必ずしも手術をして腰痛を治すことを重視していたとは限らないようで。

痛くて作業が満足にこなせない社員に対して、普通に働ける人達は
「なんでお荷物になってるのに給料を払うんだ、不平等だ」
と口に出さなくても、心のどこかで不満を持つ部分があります。
それが会社の雰囲気を悪くしたり、モチベーションを下げたりする。

ところが同じ『痛くて仕事に支障をきたす』状態でも、
「あいつは手術までして治そうとした」となれば、
「まあそれならしょうがない」と他の人も納得する。

だから手術しろ!」と理由を会社に直接言われた人はあまりいないでしょうが
(いるにはいます!)、
会社を円滑に機能させない社員は×。そういう空気というものがあったりする。

社会の中での振舞いとして手術を求められている、手術をすれば許される、
そういう空気を感じてしまうと、自分では意図していなくても、
「手術を受けるしかない」という考えに追い込まれていきます。

「自分は手術をしてまで治そうとした」という社会に対する免罪符を手に入れるために…。

これは会社だけでなく、家庭内でもあてはまるケースがあったと思われます。
(いつまで治らないの?というプレッシャーとか、完璧を求められる奥さんが腰痛になって…とか)

私は何百人もの手術を受けた人にお会いする中で、
どうも腰痛手術が支持された社会構造として、こうした背景もあったように感じます。

もちろん手術神話、手術信仰のようなものを社会全体が信じていた、という部分もあります。


この何年かで日本の腰痛治療が少し変わってきたのは、事実が周知されてきたことと、
社会構造が変わってきたことがあるのではないかと思います。

最近では、大手会社の社員さんで、
「整体でよくなるなら整体で」と会社が言ってくれる
なんて仰る方もいます。

「腰痛でなんで手術するの?」という空気になれば、社会的な呪縛はとけていくはずです。

で、そういう努力を一部のお医者さんは精力的にやっている。
「きょうの健康」もそうでしたし、今週の「ためしてガッテン!」でもやるようです。

しかしこういうのはTVでやるのは大変なんです。
未だにホームページなどでヘルニアの手術を勧めている病院もありますから。
その病院がCMとか流していたら大変なことになるわけでして。
NHKはやれても、民放みたいに利権が絡んでると難しい。
まあ困ったもんです。

この話の続き→続・腰痛手術は日本社会が選んだ?

2011年11月12日土曜日

松本人志と落語

先週NHKで「松本人志、大文化祭」という番組がやっていました。

ダウンタウンの松ちゃんこと松本人志のこれまでの軌跡を追う番組で、
その中で落語の話が出てきました。

親兄弟が落語が好きで、小学校1,2年の頃から
一緒に寄席に通っているうちに好きになったんだそうで。
お兄さんは素人寄席に出ていたというのですから、筋金入りの家庭環境ですな。
最近になって改めて落語を聞き始め、今は桂枝雀師匠の落語を毎日聞いているという。

私はファンというわけではないのですが、
以前島田紳助とやっていたトーク番組をたまたま見ていたら、
「子どもの頃、志ん朝師匠が好きだった」と言うの聞いて、
「へー、意外!」とこの人が気になるようになった。

確かに「人志松本のすべらない話」なんかは、まず物語があって必ず落ちがある。
落語のシステムを踏襲している。

子どもの頃に落語にハマって、その後
既成概念を覆すような笑いをやってきた芸人が、
伝統芸能の笑いを見直している。
実に興味深いですね。

落語は何べん聴いても飽きない。
漫才は3回が限度、コントは1回こっきりということもある。
その両方の笑いを考える人がこれからどういう笑いを作っていくのか。
気になります。

2011年11月8日火曜日

腰痛の原因は何?

前回に引き続き腰痛のお話。もうしばらくお付き合い願います。

先週のNHKきょうの健康 「組み合わせが大切 腰痛対策」でも紹介されてましたが、
現在の医療では腰痛をこのようにとらえています。
















「体」と「心」と「社会・環境」が相互に影響しあって、腰痛を引き起こしていると。
「社会・環境」は社会や環境が与える、身体的、心理的負担のことです。
だから厳密に言えば、腰痛は体と心の問題である、と捉えているわけです。
私はこの考え方には、大筋で異論はありません。

少し前は「腰痛は心の病気だ!」と断言しているお医者さんも少なくありませんでした。
ヘルニアなどの脊椎の異常、つまり「体」の異常が否定された事で、
「痛みを感じるのは脳(心)である、そこに異常があるのではないか」と考えたわけです。
だから、坑うつ薬、安定剤、カウンセリングなどで改善できるはずだと。

ところが海外のデータなどを見ると、これも思ったほどうまくはいっていないようです。
これから先、「心の薬」の投与が正しかったのか、という議論が出てくるかもしれません。
そもそも、腰痛が心の病気だとしても、「心の治療」自体がどれだけうまくいっているのか、
という問題もあるわけで。

どうやら「心理的要因」を改善しようとしても、思ったほど腰痛を解決できない。
結局、腰痛に対する「魔法の弾丸」は見つからなかった。
「魔法の弾丸」とは「特異的な効果を発揮する治療法」のことです。
学者はそれこそが真の治療だとして、追い求めます。
それは優れた再現性を持ち、あらゆる人に必ず効果を発揮するからです。
そういう治療を発見した人は、医学史に燦然とその名が刻まれます。

ところが色々研究してみたものの、
「効いたり効かなかったり、うーん、もうわかんねえや、 ̄\(-_-)/ ̄
となっているのが腰痛分析の現実です。だから、
「組み合わせが大切」=「よくわからないので色々とやってみましょう」、
というわけです。

しかし現実を直視して、わからないことはわからない、と表明したことは、
よくわからないのに、「こうだ!」なんて言っている学者先生なんかより、
よっぽどまともな対応だとは思います。
患者さんは、その事実を知る事で、わからないならやるべきではない
リスクのある治療を避ける事ができるのですから。

ただ「きょうの健康」を見ていても、学者は根拠が曖昧な場合でも、
発言する時は結構断言をします。
これは学者の振る舞い方として身についちゃってんでしょうな。

兎にも角にも、その人の視点が、どこからどこへ向いて、誰のために発言しているのか。
社会の中で専門家が発言する時にはそこを注意深く見極めなくちゃあいけません。

次回は、「ヘルニアは本当に原因じゃないのか?」と「整体の効果」についてお話します。

2011年11月7日月曜日

腰痛治療の変遷、NHK「きょうの健康」を見て

今日は腰痛の話、そして少しばかり長文です。おもろい話ではありません。

医学界における腰痛治療の考え方はここ数年で大きく変わっています。
以前は、腰痛は脊椎の異常によって起きる、というのが医学界の常識でした。
その中で代表的なものが「椎間板ヘルニア」です。ヘルニアの詳細は→コチラ

ところが、腰痛の研究を進める中で、全く症状のない健康な人の
腰を検査するとヘルニアが存在する事がわかってきました。
痛みのない多くの人にヘルニアがあるという事実が判明した事から、
ヘルニアは腰痛患者特有の異常とは言えなくなりました。

研修医向けの医学書である『整形外科研修なんでも質問箱145』(南江堂)においても、
画像診断で椎間板ヘルニアがあることを理由に手術を勧めること、
手術で痛みをとりましょうと言うことを
「医師が絶対にしてはいけないこと」 としており、
「結果として、痛みが取れることもある」 と書かれています。

先週のNHK「きょうの健康」を見て時代が変わったなあと感じました。
『組み合わせが大切』と題しまして、一週間で3人の先生が出演して、
それぞれ自分が適切と思う腰痛治療方針を述べていました。

- (どんなに強い痛みが長く続いていても)痛みだけで手術すべきでない
- 画像診断をあまり重視するな
- 心のケアが大切
- 運動で脳を鍛えて痛みを軽減

どの先生の主張も、単体では腰痛の原因を説明できるものではありませんでした。
どの治療が合うのかもやはりはっきりしませんという状態。
でも「組み合わせる」ことで改善する確率は上がると。
とにかく「腰痛の原因はこれだ!」なんて単純な原因追求をすることが
間違いだったと認めざるを得なくなった。
様々な事実が周知されてきたことで、医学界も方向転換を図っています。

しかし、今まで「腰痛はヘルニア(脊椎の異常)が原因だ!」
と喧伝してきたことに対してはなんの弁明もありません。

私は腰痛で手術を行なった後に、「手術をしなければよかった」と後悔されている方を
今までに300人以上は見てきています。
作家の渡辺惇一が自分が元整形外科医であることを週刊現代のコラムで述べたところ、
「腰の手術をしてひどくなったが、どうしたらよいのでしょうか」といった内容の手紙が
山のように届いたという話がその次の号のコラムに書かれていました。

その方達は「手術をすれば絶対に腰痛が治る」という認識で行っています。
結果は「痛みはとれない」、そのことを医師に話すと、とてもいやな顔をされる。
「ヘルニアはきれいにとったから、痛いはずがない。あなたはワガママだ!」
などとなぜか人格攻撃されて、深く傷ついた人は少なくありません。ホントに。

ただ、医者の方にしてみれば、ヘルニアが神経に当たっているように
画像では見えるんだから、物理的に考えて相関関係があるのは間違いない。
実際に良くなる人もいるし、なにより教科書に
「ヘルニアによる神経圧迫を除けば痛みはなくなる」と書いてある。

だから手術によって「痛みがとれない」ということはあってはならない、
そのことを想定すべきではない、としているので、
手術後に「痛い」という人は大変不都合な存在なのです。
また原因は排除されたのですから、それ以上何もできないわけで。
結果、「手術したのに痛いという患者はおかしい」と責任転嫁して攻撃してしまうことにもなる。

本当は手術をしても痛みが取れない人のケアこそが大事なのですが。

民放のTVで「スーパードクター!」みたいな番組で腰の手術をする医師はあまり出なくなりましたし、こうしてNHKでも「ヘルニアが原因だから手術を」とは言わなくなりました。
「どうも間違ってたみたいだから、勧めるのはやめよう」ってなわけです。

しかしなぜ考えが偏って、腰痛手術はデメリットの方が大きいとヨーロッパなど様々な論文で報告されているのが見過ごされたのか、なぜ患者の声にもっと早く耳を傾けなかったのか、といった検証はなされていません。おそらくこれからもないでしょう。誰も責任を問われない。

「偉い先人が正しいとしたことは、間違いだとわかっても否定しにくい、
自分も言われた事を信じてやってきた共犯者だし」
そういう理由もあって、一旦正しいとされた学説は間違いとわかっても否定されにくい構造があります。しかしその視点は患者側のものではない、ということだけは明らかです。

なぜ間違えたのか。
なぜその説が支持されたのか。
なぜ医学界やマスコミは事実を早く知らせなかったのか。
そういう検証を避けて、しれっと「最近はこういう学説があります!」
なんてやっても、「また同じ間違いをするのでは?」という疑いは晴れず、
やはり信頼はされないのではないのでしょうか。

2011年11月4日金曜日

奥様は師匠?

本日は、「暮らしの学校」にて健康と落語の講座でした。

演目は「宗珉の滝」。季節がおかしいとか言われても聞こえないふりをしますよ。

「死んだ虎」を小柄(小さい刀)に彫ったため師匠の宗珉に勘当された、
腰元彫り(刀の鍔や目抜きにする彫り物)の彫り師宗三郎。
旅をしながら同職を渡り歩いても、褒められるだけで腕は上がらない。
宿屋の主人で素人だが目利きの松兵衛に師匠になってもらい
修行しているところへ、紀州のお殿様から直々の注文が…

いわゆる「名人噺」というやつでして。
名人噺は笑いどころはそんなにないんですが、SF的な不思議な話が多いんですね。
そして人情噺の部分もあり、興趣深い話だったりします。

今、私は落語をやる上でどの団体にも属していません。
稽古も基本的に自分でやっています。
ただ自分の芸のいやなところってどうしても見て見ぬ振りをしてしまいます。

そこで!

妻に師匠になってもらってます。
妻はそれほど落語に造詣が深いわけではありませんが、
一緒に落語を見ていても、評価が驚くほど的確でして。

実は、私の噺を聞いてもらった後に、妻が志ん朝師匠と同じ指摘をしたんですよ。
多分他の人ならほとんど気にならないような、ちょっとした癖なんですけど。

この「宗珉の滝」と同じですな。

「江戸の横谷宗珉の弟子の宗三郎と言えば、どこでも下にもおかない
もてなしをしてくれて、仕事をあてがってくれる。そんときにその小柄みせるだろ、
そうすると大抵の人は、ああ見事ですね、うまいですねと褒めてはくれるけれども
死んでいると言った人は、一人もいなかった」

そう言って宗三郎は、自分の彫った虎を師匠以外で初めて
「死んでいる」と評価した松兵衛の審美眼を見込んで、
自分の作品のどこが気に入らないか、いやなのか言って貰いたい。
一生懸命そこを直して松兵衛が気に入るような仕事ができるようになれば、
「生きた」虎が彫れるようになる。だから師匠になってくれと頼み込みます。

今の私とよく似た状況です。まあこんな風に思いつめてないですけどね、全然。
とにかく自分の落語は最後に妻に見てもらって直しているという。

ところが…私は妻の的確な指摘に対して、
「おかしい?本当に?ふーん」
とか文句を言ったりする、とんでもない弟子だったりします。

えー、これからは心を改めますのでどうか破門だけはご勘弁を…

2011年11月1日火曜日

落語家への道は険しいのか?

「ザ・ノンフィクション・おんな落語家への道」
今年の1月に一度放送されたようで、先日再放送で初めて見ました。
youtubeにもアップされているようですね

落語は男の芸。かつてはそうでした。女性の寄席芸人さんは昔からいましたが
三味線漫談とか奇術(マジック)とかで、「落語家」にはなれなかった。
まあ歌舞伎の舞台に女の人が上がりたいと言うようなもんだったんです。

しかし、現在は女性落語家さんも随分と増えました。
その第一号が三遊亭歌るた(かるた)師匠。女性で初めて真打になった落語家さんです。

この番組は歌るた師匠に弟子入りをした、
IT企業の社員だった三遊亭歌る美(かるび!)さんと元役者の三遊亭多ぼうさん、
2人の女性落語家の前座生活を追うドキュメンタリーでした。

落語家は段階を経て身分が上がっていきます。

前座(4~5年)
この間は基本自由がありません。毎日師匠の家と寄席(演芸場)を行ったり来たり、
掃除、洗濯、師匠の身の回りの世話をしたり、寄席での仕事を覚えたりしながら、
落語家になる基礎をつくる期間です。前座期間が過ぎると二つ目となります。

二つ目(10年~)
ここからやっていいことが増える。自分の手ぬぐい作ったりとか。
自分で仕事をとって地方で落語会とか出ることができる(仕事が来ればですが)
当然師匠のところに毎日通わなくてもいい。
この二つ目の期間を過ぎますと、真打、正真正銘のプロというわけです。

真打になると、「○○師匠」と師匠付けで呼ばれるようになります。
現在は15年落語協会にいれば、まあ確実に真打になれます。あまり上手でなくても。
例外はありますが、基本的に年功序列の出世システムなんです。
そのことが今まで落語界に何度か騒動を引き起こしてきました。
まあ今日はこの話は置いといて…

落語界では、失敗したり機嫌を損ねたりする事を「しくじる」と言います。
落語家の弟子は盗みといった悪意のあるしくじりや、
師匠の言う事に反論したりしなければ、破門になることはあまりありません。
「気が利かない」でクビにした師匠もいたって聞きますけどね。
基本的には自分から「やめたい」と言わなければ続けられます。

いやあ、しくじってましたねえ。TV番組はそういうところクローズアップしたがるとはいえ…。
しくじるのは仕方がないんですが、ちょっと痛々しいしくじりが多い。
小言で泣いちゃったりとか。うーむ。

でも歌るた師匠はすごいと思いましたね。
何があってもちゃんと育てよう、という気持ちが画面から伝わって来ましたから。
自分も師匠に育ててもらった、という恩義が弟子に還元されていくのだなあと。

「誰かがしくじると居合わせた他の弟子までとばっちりの小言をもらう」
という、落語家あるあるを久々に見て、弟子時代を思い出しましたねえ。

まあ、男でも女でも、上手でも下手でも、やめたら「向いてなかった」という世界です。
60過ぎて芽が出る人もいますから(稀にね)
花が咲いて実がなるのか、最期までわかりません。

2011年10月27日木曜日

落語家の徒弟制度と面従腹背

面従腹背 … 「面従」は、人の面前では、こびへつらい従うこと。
「腹」は、心の中。「背」は、背くこと。

簡単に言えば、表向きはへいこらして愛想良く振舞い、心の中では「なんだこのバカ」
と思っている状態です。

これは日本ではよくある話でして、会社の上司と部下なんかでもありますな。

落語家の世界はその最たるものでございまして。
まず徒弟制度では師匠が絶対的な存在です。
そして先に弟子入りした兄弟子もまた絶対的な存在です。

一日でも早く弟子入りした方が、兄弟子として君臨します。
16歳で高校中退して弟子入りしてきた、ちょっとぼんやりした少年がいるとします。
次の日に国立大学を卒業した22歳のしっかりした青年が弟子入りしてきたとします。
この場合、22の青年は、この16の少年を「兄さん」と呼ばなくてはならず、
基本的に一生涯その関係は変わりません。
ちなみに関西と違って「あにさん」と呼びますよ。

会社では、あんまりバカな人は出世はしにくいでしょうね。最近は。
性格の悪い人が出世することはあっても。

でも落語の世界は、弟子入りが早いか遅いかだけで序列が決まります。
もののわからない人間が、わかっている人間に指示をすることがあるわけです。
だから色んな理不尽なことが起きてくる。

1、言われた通りにやれば間違いが起きる。
2、言われた通りにやらないで「なんで言われた通りにやらないんだ」と怒られる。

このどちらかを選択しなくてはいけない場面にしょっちゅう出くわします。このときに、

3、「言われた通りにやると間違いが起きます」と文句を言う

という選択肢はありません。それは落語の徒弟制度の中ではタブーなのです。
しょうがないから1と2を天秤に掛けて、被害の少ない方を選びます。
まあだいたい2を選びますな。で、怒られる。そして、面従腹背。
すいませんとか謝りながら、もう心の中は罵詈雑言の嵐ですな。

このときにお腹の中に黒い物が育っていくかどうかは、その人次第です。
「ならぬ堪忍、するが堪忍」なんて理不尽を辛抱しても、心に恨みを溜めてしまう人もいる。

そういう世界で、ああこの噺家さんはいやな陰がないなあ、
という人に出会うと、正直立派な人だなあと尊敬しちゃいますね。

底意地の悪さが「芸」ににじみ出ている人の落語は
やっぱり心から楽しめないもんです。

談志師匠が「落語は人間の業の肯定である」と仰っているのをいいことに、
落語家個人の業を肯定して良いという話にすり替えてしまう人もいますが、
そんなことをしていたら、いつかお客さんに愛想をつかされると思うんです。

2011年10月21日金曜日

代替医療は「診断」できません

先週で最終回を迎えてしまいましたが、
毎回楽しみにして見ていたNHKの「ドクターG」。

実際にあった症例をリアルな再現ビデオで出題し、若い研修医たちが
経験豊富で優れた総合診療の医師に導かれながら
カンファレンス(症例検討会)をして、正しい病名を探り当てるという番組。

診断において何が大切なのかを教えてくれる
総合診療医たちの言葉はとてもためになるものでした。

もっとも法律的に「診断」をしていいのは医師だけですけどね。

代替医療の場合、言葉をかえて「見立て」なんて言います。
もともと江戸時代までの医者は診断のことを「見立て」と言っておりまして、
まあ意味合いは同じなんですが、そこは間違えちゃあいけません。
これを知らないと下手をすれば、うしろに手が回りますな。

見立てる上で、一番に考えなくてはいけないのが
「自分が手出ししてはいけない領域」、です。
主症状が肩こり、腰痛といったものでも
脳や内臓の疾患から来ていることもあります。
正しい治療を受ける機会を奪う事のないように、
自分を過信せず、客観的に判断する必要があります。

そういうものの見方について改めて考えさせてくれる番組でした。
ちなみに最終回の病名は「ウェルニッケ脳症」でしたが、
実はかなり早い段階でわかりました。やった、初めて当たった!

この病気をなぜ知っていたかというと、
「江戸患い」と言われた病気について以前調べたことがあったからなんです。

それは戦前まで、日本人の国民病と恐れられた「脚気」です。
ウェルニッケ脳症はビタミンB1が不足する事で起きる病気なのですが、
脚気も同じ原因で起きます。ビタミンB1について色々と調べていて、
それで知っていたというわけで。

麦や豆類、また玄米にはビタミンB1は含まれているので、
田舎の人は脚気にはなりにくかったそうです。
精米したお米、いわゆる「銀シャリ(白米)」ばかり食べていた江戸っ子は、
ビタミンB1が不足しやすかったのだ、とされております。

しかし脚気はかつて原因の分からない病でした。
明治時代に近代医学が日本に入ってくる中で様々な議論が起こりました。
脚気をめぐる医学界の混乱を見なおしてみると、
封建的で徒弟制度的な「学閥」というものの問題が浮き彫りになります。
うーん、この問題は今も変わっていないかもしれない…

2011年10月20日木曜日

志ん朝師匠の稽古

落語家は稽古をつけてもらっていない噺は演じてはいけない。
という暗黙のルールが、一応あります。

一応、というのは流派や師匠によってこの辺の
考え方は随分違ってるんです。

例えば先代の小さん師匠は(永谷園のCMご存知ですかね)
落語の稽古は滅多につけてくださらなかったそうで。
稽古をつけてくれると言ったら、剣道の稽古だった、なんて話があります。
芸は盗むものだから、自分でできるようになったと思えば
やってもよい、というスタンスだったそうです。
そのかわり他の師匠がやっている噺をやるなら、
了承を得てからやんないとダメだよ、
と仰ってたようで、そこは流石に筋が通ってる。

古今亭は(少なくとも志ん朝師匠は)3べん稽古というやつで、
まず、師匠が噺を3回続けてやってみせてくれます。
それを必死で覚えて、自分で練習をして、それから師匠に見て貰います。

とにかく志ん朝師匠が普段は絶対にやらない、
前座がやるような落語、いわゆる前座噺をやってみせてくれる。
もうそれだけで感涙ものでした。

ところが、いざ自分の落語を見てもらいますと…。
ほんの十数分の落語なのですが、とにかく直される直される。
どこが駄目なのか徹底的に、また論理的に指摘してくださる。

しかし一切の甘えを許さない指摘は、グサグサっと来る。
変な汗は出るわ、もうだんだんと息が継げなくなって、
稽古が終わる頃にはもうフラフラ。

今思えば弟子としてこれほどの果報はないんですよ。
そこまでやってくれる、またやれる師匠はそうはいません。

ただ、きちんとできなきゃあいけない、完璧にできないなら
弟子の資格はない。最初からできるわけはないんですが、
そう思って、私はどんどん自分を追い詰めちゃいましたね。

しかし「芸」というものを考えたときに、
受け継がせる「重さ」、受け継ぐ「重さ」があるうちは
やはりDVDじゃあ学べないものが、そこにはあると思います。

笑いが取れればいい、それで客がつくならプロの落語家だ、
という考え方もありますが、そこだけになったら、
「落語家」じゃあなくて、ただの「笑わせ屋」なんじゃあないのか、
DVDで稽古しながら、そんなことを思ったりします。

2011年10月17日月曜日

弟子の報酬

未だに残る厳しい徒弟制度の世界。
なぜそういう世界に飛び込むのか。

それはそこでしか得られないものがあるからです。

整体でも色んな学び方があります。
私は弟子入りをしましたが、一般的には講習会や学校に通って勉強します。
この場合、授業料の対価として技術を教えてもらえます。

しかし体を使う技術、感覚が大切な技術において、
肝心な情報は個人に属しています。
武道、料理人、落語家、整体師、
その中で、名人、達人と言われる人の技は
できるだけその人の傍にいて
繰り返し繰り返し鍛錬して
感性的な部分まで勉強しなければ
身に付けることは難しい。

情報はセミナーでも買う事ができるが、
この感覚の部分は一朝一夕では身につかない。
また公の場では秘技、秘伝は開示されないのが常です。

弟子になることでしか得られない報酬が確約されていることで
徒弟制度は成立してきたといえます。

私はどうせやるならば一番うまい人の下で
修行しようと、落語家、整体師と
弟子入りをするときには吟味させて頂きました。
師匠選びは3年かけろ、なんてよく申しまして。

しかし現在、落語などの演芸はプロでなくても
DVDなどの映像で勉強することが出来ます。
しかも名人と謳われた落語家の映像で(下手でつまんないとDVD化されない)。
つまり秘技秘伝だだ漏れ状態という。
だから落語協会に所属する落語家にはなれなくても
落語自体はうまくなれるというわけで。
社会人落語でも上手な人がこれから増えていくでしょうね。

しかしそうなると、落語家の弟子の報酬は、
「芸」ではなく「協会所属の落語家」という権益の獲得になってしまう。
さあ困った。
伝統芸能のアイデンティティーが脅かされております。

2011年10月13日木曜日

代替医療への期待

「先生の神通力で腰痛だけでなく肝臓までよくなりました!」
随分前のことですが、このように仰る方が来られたことがありました。

この方は来院する2,3年前から腰痛に苦しんでいました。
それが1ヶ月程度でかなりの改善がみられ、
それからさらに2ヶ月程経ってから肝臓を検査したところ、
今までかなり悪かった数値が正常になっていた、というのです。

「この整体は、肝臓を治せるぞ!」
あたしはそんなこたあ言いません。

現実として起きた事は

「整体を受けている期間に肝臓の数値がよくなった」ということ。

このことに整体の施術がどのように関係しているのかを考えないといけません。
私は患者さんにこのように話しました。

「腰痛が楽になって生活の質が改善されたことが一因かもしれませんね。」

その方の以前の状態は、
・腰痛で仕事がとてもつらいものになっていた。
・痛みのために好きなゴルフもできなくなっていた。
・そのために酒量が増えたり、悪酔いしていた。

これが腰痛が改善する事で、
・仕事がばりばりできるようになって楽しい。
・ゴルフも腰を気にせずできる。運動がストレスなく出来る。
・たのしいお酒になって、深酒もしなくなった。

腰痛のストレスから開放され、体が元気になった。
そしてなにより酒量が減った。
その結果として数値が良くなった可能性はあると思います。
またそれ以外の何かが影響しているかもしれません。
姿勢の改善や偏った体の緊張がよくなったことが
影響していないとは言い切れませんが、
それだけが直接的に肝臓へ作用する事は考えにくいことです。

このように申し上げると、少し残念そうなご様子でした。
この方が抱いた大きな期待とは違うことを私が言ったからです。

私は力添えをしたかもしれませんが、
自分で治したことに気がつかないで、すべて此方への期待に変換してしまう、
そんな関係性は適切とは思えません。既によくなっていることですし。

こうした患者さんの期待感に、施術家は流されそうになることがあります。

現実を客観的に見て、正しく判断する。
この視点を忘れないように気をつけませんとね。

2011年10月8日土曜日

代替医療と徒弟制度

前の記事で『代替医療のトリック(新潮社)』について書きました。
今回はどのような科学的根拠を提示されても代替医療が
「自分の治療は絶対正しい」
と思考停止してしまっている理由について考えます。

「師匠がカラスを白いと言ったら、お前も白いと言わなくっちゃあ駄目だよ」
これは私が落語家になる前に言われた言葉です。

落語家や植木職人といった世界では徒弟制度というものが残っています。
弟子入りして師匠の身の回りの世話をしながら色々教わっていく。
そこでは師匠の言う事は絶対的な力を持ちます。
どんなに理不尽でも師匠の言う事には「ハイ」と言わなくてなりません。
もし文句を言えば破門され、道が閉ざされてしまうからです。
そしてその力関係は生涯続きます。

師匠に逆らわず、言われた通りの事をそのままやっていくというのは、
技術の継承という点では優れている部分もあります。
しかし教えられたことが間違っていた場合は、間違いも受け継ぐ事になります。

そして代替医療の多くは「徒弟制度」的な部分が色濃く残っています。
かつては医学界もそうした面を強く持っていました。(今もありますが)
偉い先生は神格化され、絶対視されている事が少なくありません。

その先生が、「あらゆる病気はこの治療で治せる!」
と宣言した場合、誰も反論が出来ず、
それが検証もされないまま受け継がれてしまう事があります。

カイロプラクティックの創始者、D.D.パーマーは
「あらゆる病気の95%は、椎骨(背骨)のズレから生じる」
そう述べています。そしてそれはカイロプラクティックで治せると。
これは約100年前のことです。

そして程なく日本にカイロプラクティックが入って来ました。
ほねつぎの先生など日本の手技を用いる代替医療の施術家の中には
カイロプラクティックを取り入れる人もいました。

その結果、「病気は椎骨のズレから生じる」という説が伝わり、
「カイロプラクティックが治せるなら、うちのやり方でもいける」
という便乗派も含めて、徒弟制度の中でその説が受け継がれてしまった流派が、
今でも、「なんでも治せる」と宣言をしている場合があります。

もちろんそれ以外の流れで、自分の施術を過大評価している代替医療は
無数にありますが、基本的に
「創始者、偉い先生が治ると言っているから」
という考えが元になっています。

アメリカ由来であるカイロプラクティックは
現在は「何でも治せる」とは言っていません。
団体が大きくなる中で精査が進んだということもあるでしょうが、
こうした傾向は封建社会が長く続いた
日本ではより強く見られるものかもしれません。

私は昔、「なぜそんないいかげんなことを言うのか」と
大言壮語する代替医療に怒りを禁じ得ませんでした。
しかし自分のしていることに疑問を持ちにくい制度があり、
それがそこから脱する事が困難なシステムであると気付いてからは、
冷静に見る事ができるようになりました。

私に出来る事は、そういうシステムの存在をきちんと認識し、
自分のできることを把握し、正しい判断をする。
そういった視点を持ってください、と言い続けることだけです。

しかし問題は他にもあります。施術家の目を曇らせる
「代替医療に過度の期待をする人々」の存在です。

それはまた次回のお話。

2011年10月6日木曜日

明日の講座

いよいよ明日は「暮らしの学校」にて講座です。

講座の時間中は整体院を開く事ができませんので
明日の10時から12時までの2時間はお休みとさせて頂きます。
予約の電話は受けられます。

落語家をやめ、整体の世界に身を置いて15年。
落語の笑いがもたらす効果は、健康にも人生にも
非常に有益なものであると考えています。

ライフワークとして続けていけるよう
肩の力を抜いて、でも真剣にやって参ります。

2011年10月5日水曜日

「代替医療のトリック」を読んで














『代替医療のトリック』 サイモン・シン  新潮社

代替医療とはどういった医療なのか。
読んで字のごとく通常の医療の代りに用いられる医療、
簡単にいえば西洋医学に基づかない全ての療法のことです。
「民間療法」と表現されることもあります。
鍼灸、ホメオパシー、ハーブ療法、カイロプラティックなど
数えきれないほど、たくさんの代替医療があります。
私がやっている「整体」も代替医療です。
この本は代替医療が「本当に効くのか」を科学的根拠に基づいて検証しています。

特筆すべきは、理論的に証明できなくても、
本当に効果があるなら有効な治療法であると認める、
真実を追究するという立場で検証しているところです。
そこが単なる代替医療批判本ではないところです。

この本はまず病気というものを考える上で、科学的、客観的な見地が
いかに重要であるのかを述べています。
かつて医学は迷信を含んだ極めて曖昧なものでした。
この200年で科学的な物の見方をすることで、
正確で間違いを起こしにくいものに進歩しました。
ところが代替医療の世界は、昔の医学がそうだったように
迷信や明らかな矛盾がそのままになっています。

そして様々な科学的検証から得られた代替医療の真実の効果は…

結論から言えば、この本に書かれている検証の結果は、
多くの代替医療にとって望ましいものではありません。

それでも全ての代替医療の施術家はこの本を読んで、
胸に手を当ててみたほうがよいと思います。

「科学で全てが証明できるわけではない」
「目に見える世界しか信じないのは心が狭い」
このような反論しかできないようであれば、
その人は、
「目に見える世界を見ようとしない、正しいものの見方ができない人間」
という評価をうけることでしょう。
反論する前に、ほとんどの代替医療は科学的な検証に耐えられない
この現実を受け入れなくてはなりません。

代替医療が謳っている様々な効果。
それらは私の知る限り、

「創始者や立派な先生が言っていたから間違いない」
「思想や考え方が素晴らしい治療だから間違いない」
「(代替医療の)教科書にそうだと書かれているから間違いない」
「ある医者が認めているから間違いない」
「自分で効果を実感しているから間違いない」
「自然に由来するものだから間違いない」

せいぜいこの程度の個人的な感想に支えられているものでしかありません。

なぜ代替医療が根拠に乏しい自説にこだわり
現実を正しく見て、客観的に判断することができないのか。
それはまた次回のお話。

2011年10月3日月曜日

十年一昔

今月の一日で、古今亭志ん朝師匠が亡くなられて
ちょうど10年になります。

近年の落語ブームのせいか、若くても落語が好きという方が結構いらっしゃる
のですが、志ん朝師は知らないという人もチラホラ。
時の経つのは早いものとはいえ、寂しいですねえ。
DVDやCDで若い人にも聞いてもらいたいものです。

私が矢来町のお宅の門を叩いて
弟子入りを許されたのが16年前の事でした。
その頃は本当にお元気でしたが、疲れたときなどは
よく体を揉ませて頂きました。
「揉むのがうまい」なんて珍しくほめられたりしまして。
だから落語家やめて整体師になったわけじゃありませんけど。

亡くなる一年ほど前に、岐阜に来られる事があり
楽屋に挨拶に行きまして。
少し痩せておられましたが、いつもの志ん朝師匠。
ただ周りにいる方の様子と、高座を拝見して
体が本調子ではないことが感じられました。
そして…

私はやめたから言えるんですが、
芸ある者のみが持つ孤独と苦悩、
それを高座では微塵も感じさせない方でした。

本寸法の「落語」をきちんとやってのけることがどれほどのことなのか。
「笑わせ屋」じゃあない「芸」の凄み。
私が傍にいて垣間見たのはそういうものでした。

2011年9月29日木曜日

落語全集 下














落語全集の紹介。最後の下巻。














前書きは「浮世哲学」。
執筆者は、人呼んで「外務省の名物男」、小村欣一。
外務大臣、小村寿太郎の息子さん。
ウィットに富んだ文章がなかなか面白い。
かなり粋な官僚だったようですな。

「努力は結構だが世の中の状態を無視して自分ひとりが決めた、
最善の努力もまた必ず成功するとは限らない」

日露戦争のポーツマス条約で、ロシアから賠償金を引き出せなかったことから
(もっとも日本には戦争継続の余力はなく、形式上の「勝ち」を引き出すのが精一杯だった)
マスコミが見積もった多額の賠償金に、「賠償金!賠償金!」となっていた
日本国民の批判を一身に浴びた小村寿太郎。
その息子の言葉と思えばまた重みが違ってくる。

 「人情の機微、世態の妙諦というものは単なる文字や、言語では、
中々呑み込めるものではない、いわゆる浮世哲学が必要である」
「落語の中には、深遠微妙な人情と、世態の真相を巧みに、物語っているものがある」

ただの「お笑い」ではない落語の本質を語りつつ、
社会の真相を見つめなくてはならないというメッセージを伝えています。
こういう論理と興趣の双方に通じた、実社会に有益な人物が、
現代の官僚や政治家にはいないものでしょうか。


昭和四年十二月十日 発行とあり、初版本なのですが、
右下に (非売品) の文字が…
祖母が、どういういきさつでこの落語全集を手に入れたのか、
今となっては永遠の謎です。

2011年9月28日水曜日

落語全集 中














昨日に引き続き、落語全集の紹介。本日は中巻。














前書きは、「武士道」の新渡戸稲造。前の5千円札の人です。
高橋是清といい、落語好きはお札になるような出世をするかも?

「笑」と題して、様々な観点から論じつつ
情緒より起きる笑いと智能より発するユーモアが
「人々に喜びと思想の深みを分って、人生を豊かにし、世を明るくする偉大なる作用を来す」
と笑いというものを考察しています。
現代のTVなどの笑いは、ちょっと情緒に偏りすぎでしょうか。うーむ。














上に演目、下に演者の名前。
大名跡がずらりと並んでます。
なんと「立川談志」の名も。もちろん当代がまだ生まれる前ですので、先代ですが。

この落語全集は、落語の口演を書き起こしたものでして。
昔は録音機器がありませんから、速記を行っていた。

明治の大名人「三遊亭圓朝」が最初に速記を許したといいます。
それが新聞に載って好評を博しました。
落語速記文は言文一致体で書かれており
その影響を受けたのがかの二葉亭四迷。
ここから言文一致体で書かれた最初の小説、
「浮雲」の執筆へとつながっていきます。

落語が日本語の文体の変化に大きく関わっていたというお話。

2011年9月27日火曜日

落語全集 上

私の落語好きのルーツ。祖母の形見であります。





大日本雄弁会講談社(今の講談社)から
昭和四年に発行された落語全集







布張りの表装は流石に劣化して、ほつれや汚れが目立ちますが、
戦争前に出版されているせいか製本がきちんとしています。
シミはあるものの読むのには支障ナシ。















題字は当時の大蔵大臣、高橋是清の手によるもの。50円札の人です。
「無趣濁心耳」とあります。
「趣というものが無ければ、心でものを聞き取ることはできない」
という意味です、おそらく。いいこと仰いますなあ。

 

前書きは、日本資本主義の父と言われる渋沢栄一。
どうもかなりの落語好き。
伝説の名人「三遊亭圓朝」を贔屓にしていたらしく
その逸話が述べられておりまして大変興味深いものがあります。

戦前から戦後しばらくまでは(今でもあるとは思いますが)、
政治家や財界人が落語家などの芸人を贔屓にして、
客を招いた時に余興を添えるために、
わざわざ呼ぶ事があったそうです。

前書きはこう結んでいます。
「余韻のある処世、余情のある交際、これほど人生に於いて大切なことはない」
「滔々たる懸河の弁を弄するよりも世人がこの落語に学ぶところ多からんことを願う」
論語に通じ、仁義道徳が経済の根底になくてはならないと説いた渋沢栄一。

人生の妙味を知る日本人は今はいずこ…

2011年9月26日月曜日

葵丘倶楽部にて

昨日は、葵丘会館にて
「落語と笑いで健康づくり」と題しまして、
落語を2席、健康にまつわる話を交えまして
させていただきました。

定員100名のところ120名もの方においで頂きまして、
わざわざのお運び誠にありがとうございました。

またこうした会が開けましたのも葵丘会館のスタッフの皆様方が
お骨折りくださいましたお陰でございまして、御礼申し上げます。

2011年9月16日金曜日

講座のお知らせ その2

その2、と言いつつこちらの方が先だったりします。

名鉄東岡崎駅南口から徒歩1分の葵丘会館にて

9月25日(日) 午後1時30分から

会費 千円 (お茶、ケーキ付) 定員100名

「落語と笑いで健康づくり」 というタイトルで
落語を2席。健康にまつわる様々な話を
ちりばめながら演らせていただきます。
もう急に忙しくなりましたんですが、
こうして噺をさせていただけるのは
ありがたいことでございます。

お問い合わせはこちらまで

葵丘倶楽部事務局 (月曜、祭日休館)
TEL 0564-57-1451

2011年9月7日水曜日

講座のお知らせ その1

久々の更新でして。

実は以前から講座の依頼を頂いておりまして、そのお知らせでございます

10月より JR岡崎駅 徒歩5分の暮らしの学校にて講座を行います。
タイトルは 「らくごでらくごしない生き方」 です。










健康食品やパワースポットなど現代の健康ブームや
江戸時代の病気や健康法などの身体にまつわる様々な話題を
落語の笑いを通して、話させていただきます。
健康を考える上で、本当に大切な事はなんであるのか
皆さんにお伝えできればと思っております。

お問い合わせは 暮らしの学校 まで

岡崎市羽根町字若宮30番地  TEL 0120-511-533

2011年8月23日火曜日

コラーゲンよりカラアゲ、ん?

このところ落語の話ばかりでしたので、健康のお話をひとつ。

最近テレビ(特にBS)を見ていますと健康食品のCMが頻繁に流れております。
ま、これがちょいと気になるというか、なんか引っかかるCMでして。
芸能人が少しわざとらしい感じで、「いいですよ!これ」 なんてやってる。

「あくまで個人の感想です、効果を保証するものではありません」
CMの下に出る小さなテロップは何を物語っているのでしょうか。

「肌の若さを保つ!」なんて宣伝している健康食品に
よく含まれているものとしてコラーゲンがあります。
コラーゲンとは皮膚や靱帯、軟骨といった組織の弾力性や強度を保つタンパク質です。
そしてタンパク質はアミノ酸が集まってできています。

で、はっきりしているのはコラーゲンをいくら口から取り込んでも
そのまま皮膚などの体の組織に行き渡らないということです。

タンパク質は一旦アミノ酸に分解されてから吸収され、
体内で新たに様々なタンパク質を生成します。
コラーゲンをいくら取り込んでも分解されたアミノ酸が
必ず体内のコラーゲン生成に使われるわけではありません。
タンパク質を含む他の食べ物でも理論上は差がないのです。

わたしは大学で生命科学をやっていましたが、小学生の時に読んだ
「ニャロメのおもしろ生命科学教室」にも書いてありましたよ。
「トンカツばっかり食べても体がトンカツのトンカツ人間にならないのはなぜなのだ」
なんてバカボンのパパが言ってましたなあ。

でもタンパク質や良質なアミノ酸が多く含まれているならば有効かもしれません。
で、「すっぽん〇〇」というコラーゲン含有を謳っている健康食品を調べてみると…

一ヶ月分62錠でタンパク質は8.6gでした。
これは鶏肉100gに含まれる量の約半分です。
コラーゲンを構成するアミノ酸含有量も調べましたが、鶏肉100gと大差ありません。
しかも1ヶ月ぶんで……

こういう事実を踏まえた上で、
「コラーゲンは経口摂取したほうが肌にいいという説もある」
「より良質のアミノ酸を抽出している」
と考えて選択するのならばまだよいかもしれません。

まあ私なら鳥のからあげにレモン汁(ビタミンCはコラーゲンの生成に必要)
でもかけて食べておきますけどね。

2011年8月15日月曜日

にっぽんの小咄

落語には長い物では1時間を越えるような話もありますが、
ごく短いお話というのもある。
これを小咄なんて申しまして。



筑摩書房の「にっぽん小咄大全」

古本屋で手に入れた物ですが
昭和43年が第1刷で
昭和54年が第17刷となってますので、
昔はコンスタントに売れていたんでしょうね。

現在は絶版。






トリスでおなじみの柳原良平の
挿絵も良い感じ







で、内容はというと、13世紀から19世紀までの小咄集なのですが
なんと半分近くがいわゆるバレ噺(破礼噺)。
現在で言うところの下ネタというやつでして。
内容はというと、とにかく単純で露骨なものから、社会風刺を含んだものもある。

そういった話にはお坊さんもよく出てくる。
ばれないように医者に変装して花街に遊びに行ったとか。
江戸っ子は二枚舌や知ったかぶりが大嫌いですから、
口先だけ立派なことを言っているような人物は、
格好の風刺対象になったんでしょうね。

最近の寄席ではあまりバレ噺をやることはなくなりましたが、
江戸時代から戦後あたりまではかなり盛んだったようです。

そういう古き良き日本人の伝統が受け継がれて、
「クレヨンしんちゃん」とかになっているんですかねえ。
まあしんちゃんは世界中で受けていますので、
万国共通のわかりやすい笑いなんでしょうが…

2011年8月11日木曜日

羊羹うまい

先日の落語会、おいでくださった方々から
色々とうれしい言葉を頂きました。

「いやあ面白かったよ」という評価も有難いのですが、
自分では気付かないようなところに興味や関心を抱いて
くださるのが大変にうれしい。

「羊羹を食べる様子が、あまりにもおいしそうなんで驚いた」
みなさんに言われました。
自分ではそれほど工夫をしていない所に面白みを見出してくださる。
それを聞いてまた自分自身の芸に興味が出たりしまして。




いわずと知れた「とらや」の羊羹

そういえば落語家時代に写真とおんなじものを
お前は甘いもんが好きだし、うちは食べないからと
師匠から貰ったんです。
でも一人で食べるには多すぎて、苦労しました。
2本で1400gなり。
実はそれ以来、羊羹は少し苦手。




まあエア羊羹はおいしそうだったということで。

2011年8月8日月曜日

満員御礼

昨日は、杉田整体院寄席にて落語会。
演目は「代脈」。
古方家の名医尾台良玄の弟子銀杏が起こす騒動の顛末やいかに。





通気性の良い絽の着物は、暑い夏でもホントに涼しい。

母親には「お前に絽の着物は10年早い、生意気だあ」
なんて冗談めかして、たしなめられましたがね、たははっ。





お忙しい中わざわざ足をお運びいただいた皆様方
誠にありがとうございました。
一時間程の会のために遠方から来てくださった方もありまして、
うれしいかぎりでございます。

妻と妻の母君にもいろいろと力添えをしてもらいまして、
おかげさまでなかなかよい会になったと思っております。

本業がありますのでそう頻繁にはやれませんが、
ちょくちょくやって参りますので、今後ともお付き合い願いとう存じます。

2011年8月1日月曜日

杉田整体院寄席

8月7日に杉田整体院にて落語会を行ないます!

予約にて受付中ですが、16、7名程度の
キャパシティーですのでいっぱいになった時点で
締め切りとさせて頂きます。
既にかなり埋まっている状態でございます。

演者は私のみですが、単純な笑いだけでない落語という演芸に
健康や体にまつわる様々な話を交えた、独自の落語というものを
目指して演じて参りたいと思っております。

新たなる芸名は、最初にパッと浮かんだ「背中家腰楽」にしました。










乞うご期待!

2011年7月21日木曜日

悪態をつくと痛みに耐えられる?

キール大学の研究者から最近、以下のような報告がなされました。

ボランティアに手を氷水につけさせ、その間、人を呪う様な悪態を言わせ、
どれくらい長い間手を氷水につけていられるかを測定した。
次にボランティアが無害で、「清潔な」言語を暗唱している間、
どれくらい氷水につけていられるかを測定した
その結果、悪態をついたほうが4倍長く氷水に手を漬けていられた。
このことから悪態をつくことは痛みを鈍くする効果があることが判明した。

…ということですが、
ひょっとすると人間が悪態をついたりや暴言を吐くのは、
肉体的、心理的苦痛にかかわらず、苦痛に対する逃避行動としての
自然な行為と言えるのかもしれません。

落語のほうには「小言幸兵衛」とか「小言念仏」とか
小言を言うのが趣味のような人が出てくる話がある。
とにかく周りの人間に朝から晩まで小言を言ってなきゃ気がすまない。
性格の悪い人は長生きするなんてことをよくいいますが、
そういう人は悪態ついて、ストレスを溜めこまないんでしょうな。

でもねえ…、まわりはたまったもんじゃない。
一人の利益が多数の不利益を生むのですから、社会的に見れば害悪ですな。

みなさんも悪態や小言はほどほどに…

2011年7月8日金曜日

葛根湯医者

江戸時代には「葛根湯医者」ってのもいた。

誰が来ても葛根湯しか出さない医者の事です。
現在でも葛根湯は薬局なんかで売ってます。

強い薬は、毒になることがある。副作用もあるし、
処方を間違えば、病状を悪化させる事もある。

そこで「葛根湯」です。
これは、副作用が少なく、悪影響が出にくい。
頭が痛くても、腰が痛くても、おなかが痛くても、目が痛くても
「葛根湯おあがり」ってなわけです。

ただ、科学的根拠の少ない医療の中で、このやり方は
あながち間違いともいえません。

ヒポクラテスは言いました。
「患者に利すると思う治療を選択し、害と知る治療を決して選択しない」

葛根湯医者は医療過誤をおこしにくいという点で、江戸時代の
他の医者よりも優れていたと考えられます。

この時代の「利すると思う治療」の効果はあいまいで、
かえって悪化させることも少なくなかった。
利害のバランスを考えると、下手な事をするより
「害かもしれない治療を決してしない」に徹するほうが正しい。
そう考えた医者が「葛根湯医者」になったのではないのでしょうか。

薬をもらっただけで安心してよくなる人もいます。
「葛根湯医者」は本当に効果のある治療がはっきりしない時代においては
名医だったといえるかもしれませんね。

2011年7月6日水曜日

手遅れ医者

江戸時代には、「手遅れ医者」なんてのもいた。
患者の顔を見るなり
「ああ、これはもう手遅れだ!」と宣告してしまうんです。

もし患者になにかあったときは
「先生が手遅れと言ったんだからしょうがないよ、あきらめよう」
となるし、もし治ったらば
「あの先生は手遅れの患者を治した!名医だ」
と評判になるというわけでして

現代の外科においては、手術の成功率というのが名医の条件に関わってきます。
重症患者の難しい手術ばかりしている先生は
簡単な手術をしている先生よりも成功率自体は低くなります。
しかし難しい手術を行なっている先生の中での成功率が低くなければ
「やぶ医者」と言われることはありません。

ところが江戸時代は、細菌による感染症など治せない病気がたくさんあった。
ただ病気の重さを判断する基準もなかったので、
ひどい患者ばかり診ていれば、当然治らない人も多い
「あそこに行っても治らないよ、ありゃあやぶ医者だ」
てな具合になる。そりゃ困る。おまんま食い上げだ。

そこで先手を打って「手遅れ」、つまり重症であると宣告してしまえば
悪い結果でも免責され、良い結果なら評判になるという寸法。
これは医学の実効性が少ない中で考えた知恵といえます。

でも… 言われたほうはたまったもんじゃないですよ。
「ああもう私の人生おしまいだ」って
手遅れと言われたショックで多くの人は病状が悪化したんじゃないでしょうか。

現代においても、重症患者を引き受けたがらない医療、
医療従事者の言葉が患者に「絶望」を与えてしまうような医療が散見されます。
現代医学でも治せない病がある、という現実が、そうした問題を
引き起こす主な原因になっています。
医師、患者、社会が「病」という現実をどのように受け入れていくことが正しいのか
これからも考えていかなきゃいけません。

2011年7月1日金曜日

でも医者

本日は、昔のお医者さんの話をひとつ。

落語に、「でも医者」というのが出てきます。
他にやることがないから「医者にでもなるか」というわけです。
江戸時代は資格というものがありませんので、道具さえあればすぐにやれたんだそうで。


    
    
      こちらは志ん朝師匠の「代脈」のCD。
      マクラに「でも医者」が出て来ます。







ただいくら資格がないとはいえ、見立て(診断)、薬の処方、療養生活の指導が
全くのでたらめでは、当然間違いごとが絶えません。
有名な先生に弟子入りして修行する人も少なくはなかった。

江戸時代の医者と現代の民間療法は似ているところがありまして

民間療法ってのは、鍼、お灸、整体、カイロ、気功、ホメオパシーといった
現代西洋医学にもとづかない療法のことです。
代替療法という言い方をすることもありますな。

ご存じでない方もいるかもしれませんが、
 
国家資格ではない民間療法は、やろうと思えば素人さんが明日からでもやれます!

「整体を私も見よう見まねでやってみるか」
「ひらめいた!○○健康体操とかやったら今うけるかも」

ということを何の勉強もしないで始めたとしても、それを規制する法律はありません。
まあ上のような人は、いろんな「間違いごと」を起こしますので、長くは続きませんが…

実際には勉強をしてから始める人がほとんどです。
しかし厳密な資格制度のない世界なんでホントにいろんな人がいる。

こういうことは民間療法を受ける前に知っとかなきゃいけない。

2011年6月29日水曜日

老か不幸か

「年取っちゃったらもうお終いだ」

なんておっしゃる方がいる。

アンチエイジングに関するアンケートによれば

加齢による悩みの多くは「見た目」だそうで。

年を取っても若々しいありたいと思うのは当然のことで。

しかし、どんなにアンチエイジングをやったところで

二十歳に戻れるわけでもなく、死から逃れる事もできませんな。

健康や美貌を保つ事は大切な事ですが、それが目的と

なってしまった人生は魅力的といえるのかどうか

年を取る事を否定したがるような、価値観や社会環境では

「加齢」は「不幸」でしかありません。

でもカッコいいお年寄りっているもんですよ。

「加齢」による不都合なんかに心を縛られない

自分の生かし方を考えて生きている人。

年寄りって言ってもそういう人は「老い」ていませんし、

積み上げた人生の中身に惹きつけられるもんがあります。

2011年6月27日月曜日

1に健康、2に?

健康になれるんだったら死んでもいい。

という方もいらっしゃるようで、

こうなるともう信心です。

「病気」や「不健康」という言葉に恐れおののいて

「健康」にすがっている。

とにかく健康になるという目的のために生きている

自分というもの見つめてみたら、「健康」以外に興味が持てぬ

そういう方は「病」になったら例外なく「不幸せ」になるでしょう

「健康」に対する考え方が「健全」かどうか

そこから始めなきゃなりません。

2011年6月23日木曜日

扇子と手ぬぐい

落語の必須アイテムといえばこれ。

 









上のはどこでGETしたのか分からない成駒屋の扇子と
名人と謳われた先代の桂文楽師匠の手ぬぐい(復刻版)。

落語では扇子を、そばを食べる時の箸や、手紙をしたためる時の筆、
広げたときは書状といった具合にいろんなものに見立てます。

手ぬぐいは、財布に見立てたりしますが、高座で普通に汗を拭くのにも使います。

落語家は様々な状況を表現しますが、道具として使うのはこの二つだけです。

写真のものは稽古のときに愛用しています。

名人にあやかって、少しはうまくなるかしらん。

2011年6月22日水曜日

落語について

私は民間療法の世界に入って15年になります。

その前はというと…

東京で落語家の弟子をしていました。
芸名も頂いておりました。
そして、いろいろあってやめました。


演ずる事を避けてきましたが、最近になって、
芸人でないからできる落語もあるんじゃあないか
そういう落語が有用な場もあるのではないか

と思い直し、改めて稽古をするようになりました。

というわけでご近所のみなさま、

「この丸太棒め!」とか「あたぼうだ!」
とか聞こえても怪しまないでくださいね。

2011年6月20日月曜日

伝えること

先日公開したホームページですが、

「健康に対する予備知識、関心がないと分かりにくいなあ」

自分で読んでそう思いました。

むむむ…、今さらながら人に伝えることはむずかしい。

いろいろ考えながら加筆修正して参ります。


昨日は名古屋のクリエーターズマーケットに行ってきました。

クリエーターさんも、来場している方達も、てんでさまざま

いろんな自己主張が飛び交う、面白い空間でした。

妻のBooks and Crafts SARANA に作品を置かせて頂いている

作家さん方ともお会いでき、とてもうれしい一日でした。

作品を通して伝わる、作家さんの様々なエネルギー。

そんな中で素直に「いいなあ」と思えるような作品に出会えると

自分の中になんともいえない力が「伝わり」ます。

私はこういう「感性」の部分は昔はたいへん鈍いところもあったのですが

妻と出会って自分の中で眠っていたものを起こしてもらえました。

感性と論理の違いはありますが、

「伝わる」ように「伝える」ことをしないと

ひとりよがりになってしまいがちです。

「落語」や「ものまね」も「伝わる」ように稽古しませんとね…

2011年6月17日金曜日

民間療法を考える

インターネットでどのように自分の考えを述べていくのか

とまどいがありしばらく更新ができませんでした。

私は民間療法、その中でも「整体」を勉強しました。
そして自分の整体を含めて民間療法、代替医療といわれるものの存在意義や
矛盾について長らく考えてきました。

そうした考えを、不特定多数の方が見るインターネットという媒体でどのような形で

発信するのがよいのか、悩んだ末…

結局、ブログでつらつらと書き連ねるのは内容的に適切ではないと思い、
ホームページ上で、まとまった考え方をあらわすことにしました。

「民間療法を考える」

というタイトルで公開しています。

こちらのブログでは、そこに書ききれなかったことや

健康にまつわる新しい情報

落語などについて話していきたいと思っています。

2011年5月19日木曜日

マッサージ、整体、ほぐし、リラクゼーションの違いは?

マッサージ、整体、ほぐし、リラクゼーションの違いは?

この4つの中ではマッサージのみ国家資格です。
マッサージという言葉は広く普及するにつれて、マッサージ=揉んで気持ちよくする、という一般認識ができあがりました。その結果、国家資格だと知らない(あるいは知っていて)無資格の人がマッサージという言葉を使って営業している事もありました。
 足裏マッサージ(もちろん国家資格ではない)という言葉も最近は使われなくなりました。無資格の人は揉んだり押したりするにあたって、マッサージという言葉を使えないため足ツボ、ほぐし、リラクゼーションという表現を使うことになります。これに整体と看板に付け加えている人もあります。無資格であるがゆえに、一ヶ月程度の研修で開業する人もいます。
簡単にまとめてみましょう。     
 


他にも民間療法には様々なものがあります。
また施術師は、「治してあげたい」と考える人と「気持ちよくなってもらいたい」と思う人の二種類に分かれます。
それが、自分が学ぶ施術として、どの施術を選び取るかに大きく関わってきます。

はじめまして

平成8年より整体業をしています。
代替医療や健康、また落語に関する思いを書きとめていきます。