2014年12月23日火曜日

蘇る「読み」の話芸、講談 (『EテレハートネットTV障害福祉賞(2)芸が与えてくれた光』)

「講談と落語の違いは何ですか?」と聞かれたことがあります。

このとき、スタイルや演目、師匠と先生という敬称の違いなどを挙げて説明をしながら、
なにか決定的に分けるものがあったはずなんだけどなあ、
と釈然としない心持ちでした。



つい先日名古屋の古書店『シマウマ書房』さんで見つけたのが、
1977年に出版された「話藝-その系譜と展開 (三一書房)」


巻末の座談会(郡司正勝、堀上謙、南博、永井啓夫)の中に、
興味深い談話がありました。





以下引用

堀上 昔から講談は読み、落語は話し、浄瑠璃は語ると言いますが、読む、話す、語るというこれらの朗踊芸が、こんにちいうところの「話芸」の基本になっているわけですね

中略

永井 読むという芸は、実に難しいと思いますよ。

郡司 範囲が非常に広い。我々は、活字しか読まないと思っているけれども、活字でなくとも、読むんですね。つまり、声を出す、ということ、人の心を読むこと、なにもないところから読みとること、などいろいろでてくるわけです。読みが深い、ということになると、解釈することにもなるから、批判することも、読むことになる。「太平記読み」などはそうですね。

 「読めた」というのは、真相がわかった時ですしね。

永井 今日の講談で、修羅場をやる。いいところで中断して、現代のくすぐりを入れる。お客はどっと笑いますね。これで講釈師は、受けた、と思ってしまう。つまり今の講談は、読みをやめてしまって、話に近づいているんですね。滑稽噺に近づいていますね。これは取り返しのつかないことだと思いますよ。田辺南洲さんあたりはまだきちんと演っていますが、今の若い芸人さん達には、あれが、耐えられないんですね。棒読みだと思ってしまう。

…引用終わり

講談は読み、落語は話し、浄瑠璃は語る。
そう講談は読むものでした。
しかし定義の幅が広い「読み」という言葉。「読みの芸」とはいかなるものか。

この本の「落語・講談」という章では講談の田辺南洲
落語家の八代目林家正蔵(元こぶ平さんの当代は九代目)が
対談形式で落語と講談について解説をしています。

南洲 講談で一番大事なことは、語るとはいわず読む、と申します。語るというと、意味が違ってまいりまして、「語ってはいけない、読め」といわれます。つまり、本を前におきまして、文章を皆さんに、聞いてもらったわけです。読んで、解説して、正に講釈をしたわけです。そういう伝統を引いていますから、決して語るとは言いません。読みます。


「読み」というのはまずテキストがあると。
それが前提で、それを目の前の人に伝えるものということ。
座談会で郡司正勝は「活字でなくとも読む」と言う。

うーむ、こりゃあ考え出すと色々とムズカシイ。













しかし写真からも伝わってくる田辺南洲の端正な所作。
名前が変わってるとしても、顔の見覚えぐらいはあってもよさそうなのだが。

と、それから十日ばかりたったある日のこと、
(前置きが長くてスミマセン)

Eテレの福祉番組ハートネットTVで、
『障害福祉賞(2)芸が与えてくれた光 -東京・貝野光男さん-』
が放送されていました。(番組のページ)

TV画面を見て、思わず身を乗り出しました。
「田辺南洲!」

NHK障害福祉賞は障害のある人や障害者を支える人がつづった
体験手記に送られるもので、番組では優秀賞に選ばれた
貝野光男さんの日常を取材していました。

史上最年少で芸術祭優秀賞を受賞し、
真打の講談師、『悟道軒圓玉(ごどうけんえんぎょく)』として活躍していた貝野さんは、
25年前に交通事故に逢って高次脳機能障害となり、
講談の世界を去ったというのです。

(田辺南洲は悟道軒圓玉の二つ目時代の名前。)

高次脳機能障害になった貝野さんは、
注意力や記憶力を失い、300以上の講談の持ちネタも全て忘れてしまい、
現在も買い物で商品を選び出すのも一苦労という状態。

当初はなかなかうまくいかなかったリハビリ。
しかし講談の話をするときだけは感情が豊かになることに注目した医師は、
失われた記憶力のリハビリとして、講談の稽古をプログラムに入れます。

貝野さんは過去の自分の講談を録音したテープを使って、
30分の講談を1分ずつ分けて憶えなおす形で稽古を進めていきます。
1日中聞き続けて、1つの演目を記憶するのに半年。
そして事故から7年後、高座に復帰を果たすまでに。

芸を失うということ、その絶望は筆舌に尽くしがたいはず。
「おれの師匠は講談界にはいない」
と言い切るほどの自負の持ち主ならば尚更。

それをまた一から積み上げていく。
インタビューでさらりと言った「芸人の業」という言葉が肚に、重い。

「芸は身の仇」ともいい「芸は身を助ける」とも言うものの…


番組の最後に悟道軒圓玉(貝野さん)の
講談「大石内蔵助東下り」を聞くことができました。

これが「読み」。

洗練された話芸は違和感なく体に入ってくる。
それは落語でも同じ。
しかし「読み」は話芸のなかでも、
聞き手が読み手にどれだけ自分を委ねられるかで、伝わりかたが変わる。
すぐにそれがわかりました。

必死に聞く、聞いてあげるのではなく、「読み」に心をゆだねる。
逆に言えば、聞き手をそのような状態に導くのが「読み」の妙。
私にとっては懐かしくも新しい講談でした。

これは絵本などの「読み聞かせ」と本質は同じだと思います。
読み聞かせも、話の途中で読み手が余計なことを言うのはタブーです。

不遜僭越は承知の上で、悟道軒圓玉の「読み」が蘇った、と言いたい。

圓玉さんはもちろん私のことは知りません。
しかし例えTV画面を通したものであっても、
圓玉さんとその「読み」に身をゆだねた聴衆との間では、
蘇ったと言っていい。

「読み手」と「聞き手」、どちらが欠けても成立しない講談という話芸。
私は心底いい読みだなあ、通ってでもまた聞きたい、
この「読み」に心をまかせてみたいなあ、と思ったわけです。

ドキュメンタリーを通して貝野さんの生きざまに心を打たれましたが、
そのことは別にして、私を惹きつけてやまないのは悟道軒圓玉の「読み」。
それは個性を超越した芸。
今はこういう本当に安心して聞ける芸が少ないような気がします。

時代によって「芸」は変わる。
是非を問うのは愚かなことかもしれません。
すべては好みの問題なのかもしれません。

それでも、本質が変わる境界というものがあります。
そこだけは見落とさないようにしたいものです。

それにしても話芸の地平というものはつくづく果てしない。

もし機会があれば圓玉さんの高座をまた拝聴したいものです。

0 件のコメント:

コメントを投稿