落語のどの噺が好きか、どういう部分が好きなのか、どの噺家が好きか、
また好きさ加減、といったことは同じ「落語ファン」でも、
その人その人で違いがあります。
当然のことですよね。
誰の噺を最初に聞いたか、どういう状態で聞いたか、
そのときの年齢やタイミングといった、「出会い方」によっては
全然関心を持たないで、あるいは嫌悪すら抱いて通り過ぎてしまうことも。
それから時間が経って、思いもかけない形で、
いい出会いが、なんてこともある。
で、今日は落語の話ではないんですが。
先日、悟道軒圓玉(ごどうけんえんぎょく)さんの講談を聞きに行って参りました。
悟道軒圓玉は史上最年少で芸術祭優秀賞を2度も受賞した真打の講談師。
二つ目時代は田邊南洲としてその名を知られていました。
しかし25年前、交通事故に逢って高次脳機能障害となり、一旦は講談の世界を去ります。
それから凄まじいまでのリハビリを経て復活を遂げた圓玉さん。
先日、EテレのハートネットTVでその講談を聞いて以来、
その話芸に惹きつけられておりました。
(その辺のいきさつはコチラの記事で↓)
※3月19日(木)20:00~、3月26日(木)1:05~ 番組の再放送があります!
またこちらのページから福祉賞を受賞した圓玉さん(貝野光男さん)の手記を読むことができます。
時は平成27年2月15日、場所はお江戸日本橋亭。
開口一番は入船亭ゆう京さんで「金明竹」。
そしてこちらも病から復帰されたという立川ぜん馬師匠、「御神酒徳利」。
休憩をはさんでいよいよ圓玉さんが登場。
修業時代の話。
そして師匠の田辺南鶴が亡くなったため、
「芸は一代限り」と弟子は取らない服部伸の弟子になるまでのいきさつ。
話の中身も大変に興味深いのですが、
言葉そのものが自分の深いところに届いてくる。
発語、発話がなんと丁寧なんだろうか。
そして今回の講談を高座にかける前に、
言葉の言い回しについて随分と吟味をなさったとのこと。
落語は話し、講談は読む。講談はテキストを読む話芸です。
伝わるように読む、その苦心を現在でもなさっている圓玉さん。
本当に頭の下がる思いがしました。
そして「大石東下り」の読み。
一語一音の響きまで洗練された話芸はなんとも深い。
自分は耳から落語が好きになったクチだから余計に、
声の出し方、声音、リズムに心が反応してしまうのかもしれません。
物語は、言語は理性で理解しながらも、
自分の始原的な感性というか、体の芯に言葉が響いてきます。
聞き終わった後には、
ただ、いいなあ。と。
帰り際に他のお客さんの表情を見ても、満ち足りた様子が伺えました。
そして一カ月たった今も、心に響いた感覚が残っています。
「我が垣見、我が左内と」
なんてフレーズも圓玉さんの声で蘇ってくる。
「読み」の面白さ、深さ。
発話、発声には型がある。声にも形がある。
テキストの文体を「声の形」に翻訳するということが講談には含まれる。
だから「読み」が心に深く残るのか。
いくつになっても、(というほどの年でもありませんが)
新しく自分の好きなものを発見することが出来るとのは、本当にうれしいことです。
とにかく自分の中にともったこの灯火は大事にしたいです。
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